ルカ 4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
イエスがこの世に来られたのは、福音を宣べ伝えるためでした。
「福音」とは、「喜びの訪れ」という意味です。
この暗い世の中に、主は喜びの訪れを告げ知らせてくださいます。
どうか悲しみ、弱さ、悩みの中にある人に、福音が与えられますように。
ルカ 4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
イエスがこの世に来られたのは、福音を宣べ伝えるためでした。
「福音」とは、「喜びの訪れ」という意味です。
この暗い世の中に、主は喜びの訪れを告げ知らせてくださいます。
どうか悲しみ、弱さ、悩みの中にある人に、福音が与えられますように。
今日はもう29日ですが、寒波が来ていたのと雪が積もっていたので、教会のツリーのイルミネーションを今日片づけました。
星形のイルミネーションから、光の筋が流れている形に電飾を飾っているのですが、ビニールテープで止めています。
毎年強風で外れてしまい、毎年貼り直していたのですが、今年は大丈夫でした。
新しいビニールテープを買ったのですが、やはり古いテープとは粘着力が違って大丈夫だったようです。
新しいことって大事なのだなと気づかされ、その時、自分自身の古い考え、今までのやり方に満足しないで、本当に新しい自分、新しいことにチャレンジしたいと思わされました。
大切にしないといけないことは変えずに忠実に貫きながら、変えるべきところは刷新して、新しい年が祝福の年となるようにチャレンジしていきたいです。
Ⅱコリ 5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
ルカ4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」
キリストが遣わされた目的が記されています。
それは、良い知らせ(福音)を伝え、聖霊の油を注ぎ、思い悩む心を自由に解放し、主の恵みを与えるためです。
ヨハ 5:43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。
キリストは、父(神)の名によっておいでになりました。
しかし、当時の人々は、キリストを受け入れませんでした。
私たちは、キリストを信じ受け入れ、キリストと共に歩むことができますように。
「闇」という時、東日本大震災のことを思い出しました。
大地震が起こった時、私は生まれたばかりの娘と合うため、病院にいました。
その時、激しい揺れが起こり、待合室は大パニックとなりました。
皆無事であったので急いで教会へ帰ろうとしましたが、車は立体駐車場に停めていたためおsとに出せず、3時間かけて歩いて帰りました。
もう薄暗くなっており、中に入ると、すべての部屋の物が倒れたり壊れたりしていました。
少し片付けたなら、すぐに日が暮れて真っ暗になってしまいました。
仕方なくろうそくを探し、火を灯したとき、何とも言えない安心感を感じました。
いま世界を闇が覆っていますが、光はその中で、強く輝くのです。
ヨハ 1:5 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
神の愛の光り、希望の光が、今こそ鮮やかに輝いてくださいますように。
今週のテーマは、「遣わされた者」
ヨハ 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
キリストがこの世に遣わされた(おいでになった)のは、この世を救うためでした。
キリストは私たちを滅ぼし、罰を与えるためではなく、愛の救いを与えるために来てくださったのです。
今年最後の礼拝でした。
ヨハ 8:12 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
「世」コスモスという言葉は、「世界中のすべての人」を意味します。
神は、すべての人に、私に、あなたに、神の命の光を輝かせてくださいます。
神に従い、神に頼る人は、決して闇の中を歩むことがないと宣言されています。
神の光に照らされて、希望と祝福の道を歩んでいきましょう。
メリークリスマス!
ヨハ 1:14 ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
キリストは、神であられたのに人間となられ、私たちの間に住んでくださいました。
見えない神が見える存在となってくださたのです。
この方は、栄光と恵みとまことに満ちています。
クリスマスの祝福が、皆さんにありますように。
ルカ 2:38 ちょうどそのとき彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。
女預言者アンナは、救い主を礼拝しました。
彼女について、「やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた」と記されています。
いつも祈り神に仕えていたので、救い主に出会う恵みを受けたのです。
また、彼女は受けた恵み、喜びを、人々に告げ知らせました。
アンナのような忠実な歩みをする者となりたいと願わされます。
「クリスマス」とは、どういう意味か知っていますか?
クライスト・ミサ、キリストのミサ(聖餐式、礼拝)という意味です。
ミサ(聖餐式)では、キリストの象徴であるパンを食べます。
キリストが生まれた町は「ベツレヘム」で、ベイト・レヘム、パンの家という意味です。
そしてキリストは、馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされたと聖書は記しています。
これらのことは、同じ一つの意味を持っています。
イエスは、私たちの心の糧、命のパンとなるために、人間となってこの地上に来てくださいました。
キリストを信じて心に迎えましょう。
私たちはキリストの内から、栄養を、命を祝福をいただくことができます。
ルカ2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。」
老預言者シメオンの言葉です。
彼は年老いてもずっと長い間、救い主を求めていました。
そして、ついに神殿で救い主イエスに出会ったのです。
その時、言ったのがこの言葉です。
彼は切に求めていたこと、節に求めていた方に出会い、「もう死んでも良い」との意味の言葉を語りました。
人生の最後に、このようにイエス人は何と幸いでしょう。
マタ 2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
博士たちは、自分たちの信仰として、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。
クリスマスは、クリストのお誕生日です。
私たちの信仰を、愛と祈りを、お生まれくださった主にお献げしましょう。
ルカ2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
天使は、救い主が生まれることを羊飼いに告げました。
不安と恐れを感じている羊飼いに、「恐れることはありません」と告げました。
また、生まれるイエスこそ、主(神)、キリスト(救い主)だと語りました。
この神によって与えられる喜びの訪れが、今日あなたの心の耳にも届けられますように。
今日は用事で、町の中心部まで車で出かけたのですが、同乗者の方々と年齢と共に様々なところが衰えてくるなという話になりました。
物忘れをしてしまう、なかなか名前がでてこないなどと話し合い、歳は取りたくなという結論になりました。
私も今は40代ですが、あと数日で50代になってしまいます。
本当に歳は取りたくないですね。
しかし、聖書はこう言っています。
Ⅱコリ 4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
個人差はあっても、すべての人の肉体は衰えていきます。
しかし、私たちの内なる人、霊魂は、日々新たに強められていきますように
日本で初めてのクリスマスについて紹介します。
1549年、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられました。
1552年、ザビエルが山口でクリスマスの礼拝をおこなったのが、日本で初めてのクリスマスだと言われています。
もう20年ほど前になりますが、私も山口の教会にいて、ザビエルがいた教会の跡地を訪れ、当時の事を黙想したことが懐かしく思い出されます。
1612年、キリシタン禁教令が出され、キリスト教もクリスマスも禁止されました。
時代は進み、1893年ごろ、明治初期ですが、あの松尾芭蕉が、クリスマスについて詠った俳句が残っています。
「臘八(ろうはち)のあとにかしましくりすます」
1900年初頭には、クリスマスは一般的になっていたという専門家もいます。
1926年12月25日、大正天皇が亡くなられたので、翌年12月25日は休日になりました。
クリスマスの日が、休日になったことにより、ますますクリスマスの習慣が広がったそうです。
ちなみに、1961年、学校の教科書にきよしこの夜が載せられ、多くの子供たちがこの讃美歌を学校で歌いました。
60代から70代の方は、学校できよしこの夜を歌った方もおられるかもしれません。
クリスマスの恵みが皆さんにありますように。
イザ 9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
お生まれになった救い主は、私たちに助言を与え、力を与え、永遠に変わることなく平和を与えてくださる神ご自身です。
このクリスマス、お生まれくださった主イエスを、心から礼拝しましょう。
クリスマスオープン礼拝YOUTUBE配信について、上手くいかず大変失礼いたしました。
以下に編集動画がアップされています。
良ければご覧ください。
https://youtu.be/JMYc5Yd6Tf4
クリスマスの喜びがありますように。
きよしこの夜について、詳しく紹介しました。
きよしこの夜は、1961年、教科書に載せられ、学校で歌われたことにより広く知られるようになったそうです。
NHKの朝のドラマで、印象的なシーンがありました。
夫を戦争で失ったヒロインが、ある日進駐軍のクリスマスパーティーに行きました。
敵の国のパーティだからと立ち去ろうとしたとき、きよしこの夜の歌声が聴こえてきました。
聴いているうちに、彼女の目から涙が流れ出し、聴いていたアメリカ人たちも、涙を流していました。
彼女を誘った米軍将校は、「大切な人を想いながら聴いているのです」と語りました。
彼女は滂沱と涙を流し、やがて笑顔となり、前向きに生きていくようになります。
このクリスマス、愛する人、失った人を想いながら過ごすことができますように。
愛する人たちが、健康でクリスマスの愛と祝福に満たされるように祈りましょう。
イエスは言われました。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:34
イザ 42:1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。
救い主キリストは、主のしもべだと預言されています。
しもべとは、主人の意思のままで行動する人です。
わがままに歩むのではなく、神の御心のままに歩む人が求められています。
主はその人を用い、祝福を注いでくださるでしょう。
ミカ 5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
ベツレヘムの町に、救い主がお生まれになるとはっきり預言されています。
イエスは、ベツレヘムでお生まれになり、約束の救い主であることを示されました。
「ベツレヘム」とは、「パンの家」という意味です。
イエスは私たちの心の糧となるために、私たちの心に宿るために、この地上にお生まれくださったのです。
イザ11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。
エッサイは、ダビデ王の父です。
神は、ダビデの子孫から「若枝」、救い主が生まれると預言しておられます。
救い主は、主の霊がとどまっているお方です。
私たちも、この知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる知識の霊に満たされることができますように。
イザ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という意味です。
お生まれになる救い主は、私たちといつも共にいて、私たちを支え力づけてくださるお方だと預言されています。
申 18:15 あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。
モーセのような救い主が起こされると、キリストの誕生が預言されています。
モーセは、エジプトからイスラエルを救い出した預言者でした。
キリストは私たちを、罪から悩みから救い出す救い主です。
先週、「誠実に歩む」というテーマで書きましたが、今日も改めて誠実に歩む大切さを知りました。
今日は、本当に風が激しかったですね。
教会は、一番高いところにあって遮るものが何もないので、建物が揺れるほどの暴風でした。
教会の前の大きな木に、イルミネーションとモールを飾っているのですが、強風で飛んでしまわないかと心配していました。
ところが、夕方になっても、イルミネーションもモールも一つも飛んでいませんでした。
以前は、よく少しの風でモールが飛んでしまっていたのですが、それ以来、モールの端と真ん中を紐で木の葉に結ぶようにしていました。
準備はかなり時間がかかるのですが、誠実に丁寧に仕事をしておくと、結局は、後から困らないということを改めて思わされました。
誠実に日々を歩む者となりたいと思います。
また、しっかりと神様につながる者となることができますようにと感じました。
今週は、「メシア預言」キリストの誕生の預言です。
民 24:17 私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。
「彼」とは、救い主キリストのことです。
昔は航海や旅をするとき、夜は星が進むべき方向を教えてくれる道しるべでした。
救い主は、暗闇に輝く導き星です。
キリストが、あなたの進むべき道を指し示し、照らしてくださいますように。
今日のオープン礼拝で、一つの出来事を話しました。
スコットランドのグラスゴーで実際にあった出来事です。
あるお母さんが赤ちゃんを連れて親戚の家に行こうとしました。
ところが天気が急変し、吹雪となってしまいました。
お母さんは一生懸命歩きましたが、日が暮れて道に迷ってしまったのです。
次の日、捜索隊が二人を発見しましたが、びっくりしました。
お母さんが自分の服を全部赤ちゃんに来て、雪の中で亡くなっていたからです。
赤ちゃんは無事でした。
このお母さんの葬儀式を行った牧師は、大変感動し、ことあるごとにこの母親の愛について語りました。
何年も何年もたって、一人の青年が教会に入ってきました。
この日も、母親の愛について語られていましたが、青年は聞きながらぽろぽろ涙を流しました。
説教後、彼は牧師のところに飛んできて「私はその助かった赤ちゃんです。今日母の愛と、神様の愛に満たされました」と語りました。
母の愛は、この地上で最も大きな愛だと言われますが、神様はもっと大きな愛で私たちを愛してくださっています。
イザ 49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。
この大きな神様の愛が、クリスマスの愛が、皆さんの上にありますように。
コロ 1:27 この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
神が私たちに描いておられる計画とは、「心の中におられるキリスト、栄光の望み」だと語られています。
私たちの心に来てくださるキリストこそは、私たちの希望です。
このお方と、共に歩むことができますように。
数日間、ブログが投稿できず失礼しました。
明日、クリスマスのオープン礼拝があります。
YOUTUBE配信アドレスを以下の通りです。
もしよければ、ご覧ください。
12月12日(日)
(メイン)
https://youtu.be/MHNE1StMiaI
(サブ:メインが見られない時)
https://youtu.be/D9NAs-j5Ylw
クリスマスの愛が注がれますように。
ロマ 15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。
宣教者パウロは、同胞ユダヤ人だけではなく、ユダヤ人以上に異邦人のために福音を語るように神に任命されました。
パウロは主の期待に応え、多くの人に福音を宣べ伝えました。
私たちの周囲にいる愛する人々に、この喜びの訪れを伝えることができますように。
使13:47 主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」
13:48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。
これは宣教者パウロに言われた神のことばです。
パウロは、このみことば通り、地の果てまで福音を伝える者とされました。
私たちも、異邦人の光、神の光を存在をもって輝かせる人となれますように。
使10:33 「それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」
初めて異邦人で聖霊を受けたコルネリウスの言葉です。
彼はペテロを迎えて、与えられる神のことばを一言ももらさず受け取ろうと耳を傾けました。
彼は、神の御前に出ているかのような敬虔な思いで、みことばを待ち望みました。
私たちも同じ敬虔な思いで、神の言葉に耳を傾けましょう。
日曜日、秋田の礼拝に行きましたが、帰りの新幹線は大変込み合っていました。
隣の席にも年配の男性の方が座られ、コロナの感染も考えて、マスクを二重にしていて良かったと思いました。
その男性の方が途中から眠ってしまわれたのですが、間のひじ掛けに置いていた手が私の側にだらんと下がって入ってきたのです。
手が私の体と当たってしまうので、私はかなり窮屈な格好になって大変でした。
その方はやがて目を覚まされたのですが、多分こちらに手が入ってきていたことに気づいておられない様子でした。
その時ふと、自分も知らない間に、周囲の人にご迷惑をかけていたり、不快な思いをさせていることがあるかもしれないと気づかされました。
これからは日々、周囲に気を配りながら、誠実に歩んでいきたいなと思わされました。
マタ 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
カナン地方に住む異邦人の女性が、娘も癒しをイエスに求めました。
彼女は、イエスから無視され、拒否されましたが、なおあきらめずに求め続けました。
イエスこそ真の神であり、イエスには娘を癒すことができると信じていたからです。
彼女のように、イエス様に褒めていただける信仰を持つことができますように。
5日は、コロナ以来、久しぶりに秋田の礼拝に行ってきました。
顔をわせて礼拝をもつことができ、本当に感謝な集会でした。
マタ 2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
博士の礼拝を学びました。
私たちも博士と共に、真心からの信仰をおささげしましょう。
「わたしはあなたに、黄金を捧げます。あなたこそ黄金のように、永遠に変わらない神の子、王なるキリストです。」
「わたしはあなたに、乳香をささげます。あなたこそ乳香をもって、わたしたちのためにとりなしてくださる、大祭司なるキリストです。」
「わたしはあなたに、没薬を捧げます。あなたこそ没薬が示すように、WEへの愛のために、十字架で死んでくださった、愛なる救い主です。」
神は愛なり!
詩146:2 私は生きているかぎり【主】をほめたたえる。いのちのあるかぎり私の神にほめ歌を歌う。
いのちのある限り、順境の時も逆境のときも、いつもどんな時も、最後の一息まで主を賛美し続ける生涯は何と幸いでしょう。
教会で一番忙しいのは、クリスマスです。
「忙」は、心をほろぼすと書きますが、本当にその通りだと今日は思わされました。
5日(日)、コロナ以来久しぶりに秋田へ礼拝に行くのを、本当に嬉しく楽しみにしているのですが、忙しさのあまり大きな失敗をしてしまいました。
いつも心を落ち着け、静まって祈ってから何事もしないと、特に今はさらに大失敗をするかもしれないと思い、気を付けようと思います。
神様が、私の力となり助けとなってくださいますように。
詩 118:14 【主】は私の力またほめ歌。主は私の救いとなられた。
主こそ、私たちの力であり、ほめ歌(賛美)であり、私の救いです。
この御方をいつも賛美することができますように。
詩 116:13 私は救いの杯を掲げ【主】の御名を呼び求めます。
10節から11節にこう記されています。
私は大いに苦しんでいました。この私は恐れうろたえて言いました。「人はだれでも偽りを言う」と。
苦しみ恐れうろたえ裏切られていたこの詩篇の作者は、神より力を与えられ、救いと喜びの杯を上げて、主の御名を呼びました。
誰しもが通る道だと思わされますが、主の助けを受け、私たちも救いと歓喜の杯を掲げることができますように。
詩 115:1 私たちにではなく【主】よ私たちにではなくただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。
「帰す」ヤーハヴとは、「与える、ささげる、帰する、起因する」と訳されている言葉です。
栄光はすべて神に起因するのだから、栄光を神に帰らせよう、ささげようとの意味になります。
私たちを愛し、私たちを支え見守ってくださる神に、栄光を帰すことができますように。
教会の建物と木に、ささやかですがイルミネーションを飾りました。
木が高くなりすぎて、イルミネーションやモールを付けるのが大変で、脚立の天板の上に立ってぎりぎり飾りつけることができました。
今頃は早く日が落ちて暗くなりますが、その暗闇の中でイルミネーションが明るく光り輝いていました。
聖書のみことばを思い出します。
「見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には【主】が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。」イザ 60:2
クリスマスの祝福の光が、皆さんの上にも輝きますように。
詩 113:1 ハレルヤ。【主】のしもべたちよほめたたえよ。【主】の御名をほめたたえよ。
主の御名を賛美せよと命じられています。
私たちを救い、癒し、清める主の御名を心から賛美しましょう。
マタ 15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
娘がひどく苦しんでいた時、母親は娘のためにイエスのもとに飛んできました。
イエスからは、思うような返事、態度を引き出すことはできませんでしたが、それでも母親はあきらめないで、祈り続けました。
「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。」
彼女は「私をあわんでください」と言い、娘の痛みを自分の痛みとしているところに感動します。
彼女の信仰が、あきらめない祈りが、ついにイエスのみ心を動かし、娘を癒していただくことができました。
私たちも真の神であるイエスに、なかなか祈りの答えがなくても、あきらめずに祈り続けることができますように。
心と体に力が与えられ、真の健康がありますように。
神は愛なり
今週のテーマは、「神への賛美」です。
詩 34:1 私はあらゆるときに【主】をほめたたえる。私の口にはいつも主への賛美がある。
あらゆる時に、良い時も悪い時も、どんなときにも、いつも主を賛美することができますように。
マル 6:56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。
癒された人たちは、イエスの服に触ったから癒されたのではないと思います。
イエスの神としての本質に、服を通してさわったから癒されたのです。
神であるイエスの本質に触れる祈りをささげましょう。
さわった人は、みないやされます。
出 15:26わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。
神は、「あなたを癒す者だ」「あなたをいやす医者だ」と語り掛けてくださいます。
心と体に主が力を与えて、いやしの恵みを与えてくださいますように。
今日の祈祷会で、ヤコブ書のみことばを学びました。
ヤコブ5:17-18 エリヤは私たちと同じ人間でしたが、…彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
3年6か月雨が降らなかったのに、預言者エリヤが祈ると雨が降り、収穫が与えられました。
その偉大な預言者エリヤと、私たちは同じ人間だと記されています。
目と耳が二つあり、口と鼻が一つある、同じ人間だ。
エリヤにできたことは、私たちにもできる、と信仰を与えられました。
私たちも信仰をもって、主に祈る者となれますように。
イザ 53:5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
イエスが十字架の上で釘を打たれた愛のみ傷のゆえに、わたしたちはいやされ、清められるのです。
十字架のキリストを、信仰をもって仰ぎ見ましょう。
イザ 35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
神は、弱っている人、恐れている人に言われます。
「わたしがあなたのところへ来て、あなたを救います。」
私たちの祈りに答えて、私たちのところに来てくださる神、私たちの心に来てくださる神を、信じて期待しましょう。
クリスマスが近づいてきました。
いろいろなお店で、すでにクリスマスの装飾が飾られ、クリスマス商品が販売されています。
今日は、教会のクリスマスツリーなどの飾りを出しました。
クリスマスツリーを飾ると、いよいよクリスマスが近づいてきたと実感します。
クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。
どうか皆さんの上に、クリスマスの祝福がありますように。
詩103:3-4 主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。
主は、「すべての病を癒す」と約束してくださっています。
このみことばを信じて、握りしめて祈りましょう。
今週のテーマは、「癒し」です、
詩 41:3 【主】が病の床で彼を支えられますように。彼が病むとき寝床から起き上がらせてください。
この御言葉の通り、病で伏している方々が神の力で支えられますように。
恵みの力が与えられて、起き上がることができますようにと願います。
WHOは、「健康」について、次のように定義しています。
「健康とは、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」。
どうか心と体が神の祝福で満たされますように。
また、神を知り理解することができる霊魂にも、真の健康がありますように。
ヤコブ5:14 あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
5:15 信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。今日は、健康感謝のオープン礼拝でした。
聖書は、信仰をもって主の御名を呼んで祈るだけで、救いが与えられ、倒れていても立ち上がることができると語っています。
皆さんの心と体に、真の健康がありますように。
使 19:11 神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた。
今日は、健康感謝集会です。
主が驚くべき力あるわざを現し、一同の心と体に真の健康が与えられますように。
ゼパ 3:9 そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな【主】の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。
やがて救われた諸国の民が、清い唇で主の名を唱え、一つとされることが預言されています。
私たちは、つまらないことを言うのをやめて、不平不満を言うのをやめて、清い唇で祈る者となりましょう。
使14:9 彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、
14:10 大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。
足の不自由な人が、癒されるにふさわしい信仰を持つことによって神のみ業を経験した、と記されています。
私たちも神の祝福を引き出すにふさわしい信仰を持つことができますように。
今日は、ピレモン書を読みました。
この書は、パウロがピレモンに、逃亡奴隷オネシモを赦してくれるようにと書いた書簡です。
オネシモはピレモンの奴隷でしたが、物を盗んだのか、ピレモンに損害を与えて逃亡したようです。
しかし、オネシモはキリストを信じて回心し、パウロの身の回りを世話をしていたようです。
奴隷は当時主人の持ち物であり、逃亡奴隷は死罪に当たりました。
けれども、パウロは逃亡奴隷を赦し、福音を伝え、オネシモを救いに導きました。
ここに神の愛と憐れみの姿を見ます。
神は無きに等しい者さえも、憐れんで愛し、祝福を注いでくださるお方です。
ああ、神は愛なり!
使 14:3 それでも、二人は長く滞在し、主によって大胆に語った。主は彼らの手によってしるしと不思議を行わせ、その恵みのことばを証しされた。
パウロは、大胆に福音を語りました。
神もパウロと共に働き、しるしのわざを行って福音の言葉が真実であることを証ししてくださいました。
私たちも大胆に福音を語る者となれますように。
今日再検査があって、胃カメラをしてきました。
人生初めての胃カメラで、鼻からの方が楽と聞いていましたが、あえて口からカメラを飲みました。
結構むせて大変でしたが、検査結果は、「4つのポリープがあるが、今は大丈夫。毎年検査してください」ということでした。
ひとまず安心してほっとしました。
そして、健康であることに心から感謝しました。
今日の「日々のみことば」のように、この与えられている体を、神様のために、愛する人々のために、精一杯使わせていただきたいと願いました。
使9:15「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。」
パウロは、同胞イスラエルの人々はもちろん、異邦人に対して福音を伝えるために選ばれました。
わたしたちも愛する人々のために、神から選ばれているのです。
私たちの周囲にいる人の中で、悩み苦しんでいる人はいないでしょうか。
その人々に、慰めと平和を現すひとになれますように。
最近の健診で、悪玉コレステロールの数値が高いため、半年後に再検査となりました。
それ以来、納豆やナッツ類を多く食べたり、オリーブ油を味噌汁に入れたりしています。
また、甘いものや脂肪分が多いものを食べることを減らしています。
私はチョコレートが大好きなのですが、たくさん食べられなくなりました。
けれども、たまに食べる1個のチョコレートが非常においしく幸せに感じました。
食べたいときに食べていた時には感じなかった幸福感を感じ、健康の大切さ、食べられることの幸いを感じている今日この頃です。
今週のテーマは、使徒「パウロ」です。
使 9:5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
クロスちゃんを迫害していたパウロに、復活されたイエスが光のうちにご自身を現してくださいました。
迫害者さえも憐れんで救い、このパウロを神の御計画のために用いられた神の選び、神の愛の大きさに感動を覚えます。
預言者エリシャのもとに、借金で子供を取り上げられようとしていたやもめがやってきました。
「何をしてあげようか。あなたには、家の中に何があるのか。」とエリシャが尋ねると、やもめは「家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」と答えました。
「油の壺一つ」は、やもめの目にはみじめさの象徴でしたが、神の人の目には救いの象徴だったのです。
預言者が、「空の器を集めてそこに油を注ぐように」と言ったので、やもめがその通りにすると、油はいくら注いでも尽きることなく、集めた器をすべて満たすことができました。
イエスが語られた言葉が迫ってきます。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
現状を見て絶望することもあるかもしれませんが、そこから助け出し、力を与えてくだささる神を見上げて、祈りをささげましょう。
Ⅰコリ1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。
弟子たちは、いたるところで主の御名を呼び求めていたことが分かります。
私たちも、思い出したらいつも心で御名を唱えて祈りましょう。
今日も礼拝に豊かな恵みがありますように。
クリスマスが近づいてきました。
11月27日(土)に、子供たちのクリスマスの集いを予定しています。
今回は、コロナ以来、初めて子供の集いを再開し、アドベントカレンダーを作る予定です。
とても胸がいっぱいで、嬉しく思っています。
本当にコロナウイルスによって、今まで当たり前にできていたことができなくなってしまいました。
今、感染者数が落ち着いていますが、できるようになったことを心から喜び、感謝したいと思います。
神様の祝福と喜びが豊かに子供たちにそそがれますように。
ゼパ 3:9 そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな【主】の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。
私たちの唇は、何を語っているでしょうか。
清い唇とされ、賛美と祈りを唱える唇となれますように。
明日のデボーションガイドの学びは、Ⅰサムエル27章、28章です。
サウル王はペリシテとの戦いで神に伺いを立てましたが、彼の罪のゆえに主の答えはありませんでした。
恐れ不安を感じたサウルは、自分が追放した霊媒の女を通して、預言者サムエルを呼び出しました。
そして、主の答えを求めましたが得られず、やがてサウルは戦死してしまいます。
一方、苦難の中で、神に拠り頼んでいたダビデに王国は与えられました。
神と共に歩んでいる人と、そうでない人の大きな相違を感じます。
神と共に歩む者となりましょう。
詩 63:4 それゆえ私は生きるかぎりあなたをほめたたえあなたの御名により両手を上げて祈ります。
冒頭に、「ダビデがユダの荒野にいたときに」と記されています。
ダビデ王が、息子アブサロムに反逆され、荒野に逃げているときに歌った詩篇だと考えられています。
ダビデは、両手をあげて、熱心に信仰を込めて御名によって祈りました。
彼は、喜びにあふれ、神の祝福と現存に満たされ、賛美を歌いました(詩63:5)。
私たちも信仰の両手をあげて祈りましょう。
毎年この時期に、健康感謝の集会をもっています。
一年間の健康を感謝し、また現在の健康が与えられるように祈る集会です。
以下のアドレスから配信します。良ければご覧ください。
(後日、見ることもできます。)
(メイン) https://youtu.be/BzEPmbdfvYU (サブ:メインが配信できていない時) https://youtu.be/0NV2W2vLVRUⅠ列王 18:24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。
預言者エリヤが主の名を呼んで祈ったとき、天から神の火がいけにえに注がれて、民は真の神を礼拝しました。
神の祝福が注がれるように、私たちの主の御名を呼んで祈りましょう。
今日、健診でひっかかった再検査の予約のため、病院へ行ってきました。
長い間待たされましたが、とにかく親切な対応で驚きました。
すると会計の時に、職員の対応に関するアンケートをお願いされました。
今まで家族の付き添いでこの病院へ来たことがありましたが、ここまでの親切な対応は初めてで、「なるほどこのために今日は特別親切だったのか」と合点がいきました。
その後、印刷機を使わせていただくためにある施設を訪問しました。
公の機関だったため、教会活動に対して審査があり、教会規則などを提出しました。
すると施設の方の対応が、審査するということもあったのでしょうが、病院職員とは全然違い、とても冷たく感じて、心がもやもやしてしまいました。
その時ふと、教会に来られた方に、私たちはどんな対応をしているか。
もちろん心からの歓迎と笑顔をもってお迎えしているつもりだけれど、どんな印象を与えているのかな、と思わされました。
今日は、とても大切なことを気づかせていただいて、感謝な日となりました。
Ⅰ歴代 16:8 【主】に感謝し、御名を呼び求めよ。そのみわざを諸国の民の間に知らせよ。
主に感謝しつつ、御名を呼び求めるように求められています。
感謝するということは、神のみわざの実現を信仰をもって先取りしているということです。
祈りを聞いてくださると信じつつ、御名によって祈っていきましょう。
健診で胃にポリープが見つかり、再検査となりました。
不安もありますが、神様にすべてをお委ねして検査へ行こうと思います。
人生には、本当に当然いろいろなことが起こってきますね。
主が変わらない恵みを注いで、この者をお支えくださいますように。
今週のテーマは、「御名を唱える」です。
ロマ 10:13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
聖書は神の言葉ですが、この御言葉は聖書に3度記されています(ヨエル2:32、使徒2:21)。救われるための方法が、ここにはっきりと書かれています。
主の御名を呼んで祈れば、救われるのです。
今日のオープン礼拝は、「変わることのない恵み」とのテーマでした。
私たちの周りには、「変わってしまうもの」であふれています。
来月50歳になるのですが、自分の体の変化、衰えを感じます。
人の心も、自分の心も、すぐ変わってしまうことがあります。
そして、今たった一つのコロナウイルスで、こんなにも社会が変わってしまいました。
しかし、聖書は、「変わらないものがある。それは恵みだ」と教えています。
「わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。」【新共同訳】
エレ 32:40
神の私たちに対する契約、約束は、「恵みを与えること」だ。
それは、時間がたっても、どんな状況になっても変わらない永遠に与えられて病むことがない。
まるで、太陽の光のように、すべて人にいつも注がれているものだと語られています。
この「変わることのない神の恵み」に豊かに満たされることができますように。
神は愛なり!
「わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。」エレミヤ32:40
明日は、オープン礼拝です。おいでを心からお待ちしています。
YOUTUBEでも配信します。良ければご覧ください。
https://youtu.be/YB8fbbN5Gco
Ⅰペテ 4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
私たちは今こそ、心を整え、身を慎み、神の国実現のために、心を注いで祈る者となりましょう。
今日は、夜中に目が覚めて、朝まであまり眠れず、うとうとして浅い眠りでした。
一日忙しくしていて、仮眠もとれず、今瞼がくっつきそうなくらい眠気と闘っています。
今日は、集中力が十分なくて、休むことの大切さを思わされました。
イエスは言われました。「 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタ 11:28
神の休息が、皆さんにありますように。
ゼカ 12:3 その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。
ハルマゲドンに集まってきた軍隊は、エルサレムまで進軍しますが、打撃を受けると預言されています。
しかし、その時、主が来られ、真の平和を実現してくださいます。
世界の平和が速やかに実現するように祈りましょう。
黙 16:16 こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた。
「ハルマゲドン」とは、「メギドの丘」という意味で、ガリラヤ湖の南西に位置します。
大艱難時代に、この場所に世界の軍隊が集まり、エルサレムを攻撃することが預言されています。
(祈祷会の説教より)
イスラエルのソロモン王のもとに、シバの女王がやってきました。彼女はソロモンに、数々の難問を尋ねましたが、ソロモンはそのすべてに回答を与えました。
そこでシバの女王は、2本の美しい花を見せ、「どちらが本物か、当てて見なさい」と言いました。1本は造花でしたが、あまりに見事で見分けがつきませんでした。その時、ソロモンは、「部屋のすべての窓を開きなさい」と言いました。しばらくすると、1匹の蜜蜂が飛んできて、片方の花にとまり、蜜を吸い始めました。ソロモンは見事な回答を与えたのでした。
蜜蜂を引き寄せたのは、かぐわしい香りでした。造花はどれだけ美しくても、命の香りがないために、蜜蜂を惹きつけることはできませんでした。
私たちも、キリストにあって、命の香りを、愛の香りを漂わせる者となれますように。
エゼ37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。
37:11 主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。」
有名な「枯れ骨のビジョン」と呼ばれる預言です。
枯れ骨のように滅んでいたイスラエルに、聖霊の息吹が吹き込まれ、やがて全世界に救いと平和が臨みます。
その実現のために、祈りをささげましょう。
マタ24:21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。
終末の時に、今まで人類が経験したことのないような大きな艱難が襲ってくると預言されています。
「しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。」21:22
その時が、短くされるように祈りをささげましょう。
昨日、チョコレートパイをオープントースターで焼て食べました。
パイを取り出すときに、溶け始めたチョコレートに触ってしまい、指先をやけどしてしまいました。
白く水ぶくれになったほどで、ずっと冷やしていたのですが、寝る直前になっても痛みが治りませんでした。
「冷やしながら寝ることはできないし、このままでは眠れず、困ったな」と思いました。
そこで、もう保冷剤ははずして、神様の前に御名によって祈りました。
「主よ、どうかあなたがこの痛みをいやしてください。神は愛なり」
すると、そのあとすぐに痛みが引き、ぐっすり眠ることができました。
小さな恵みですが、神様が与えてくださった恵みに心から感謝しました。
どんな時にも、信じて祈る者となれますように。
神は愛なり!
今週のテーマは、「終末」です。
あまり嬉しい内容ではないかもしれませんが、聖書から正しく学ぶことは大切なことです。
マタ24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
マタイ24章に、終末にどんなことが起こるか語られていますが、そのほとんどのことがすでに起こっていることを知ります。
礼拝の説教を語っている中で、幼子のように信じる大切さを教えられました。
ヨハ 20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
このみことばを、心から単純に信じ受け入れました。
イエスを神、救い主と信じ、御名によるなら、神の命をいただくことができます。
これは、聖書の御言葉、神の約束ですから、その通りなると信じて祈ったとき、心にあたたかい祝福をいただきました。
聖書には、何と祝福に満ちたみことばが多くあることでしょう。
私たちが、神の言葉の内から、信じて祝福を引き出すことができますように。
マタ 8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
ツァラアトという病に冒された病人は、「清くしてください」ではなく、「清くすることがおできになります」と懇願しました。
この病の中で、自分にも医者や薬にも頼れなくなったとき、ただイエスに目を向けるしかありませんでした。
彼は苦しみの中で、かえって「イエスなら清くできる!」との真の信仰に導かれたのです。
今日私たちも、信仰の目をただイエスに向けましょう。
マタ8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
ああ神は愛なり!
ロマ 12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
私たちの全存在を神のためにおささげすること、これこそ神が喜ばれる真の礼拝です。
今コロナが落ち着いているので、 今日はオープン礼拝のチラシを配布しました。
昨年の2月以来で、また配布できるようになっていることを本当に嬉しく思いました。
私は花粉症なので、普段極力外に出ないようにしているのですが、1時間半歩くと、すぐに筋肉痛になってしまいました。
運動不足を痛感しています。
でも、心地よい嬉しい痛みです。
ヨハ 4:24 「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
真の礼拝は、自分の力だけでするものではなく、聖霊と真理の助けによってささげることができるものです。
今日は、施設に入っている方を訪問しました。
大変喜んでおられ、私もとても嬉しい気持になりました。
その帰り道、道路沿いに黄色に紅葉したプラタナスの葉が、陽ざしを浴びてキラキラ輝いていました。
神様がお造りなった自然の美しさに感動しながら、また、さらに喜びが2倍になりました。
今日は、とてもいい一日でした。
ルカ 18:14 「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
イエスは、パリサイ人の見せかけだけの祈りではなく、胸を打ちながら祈った罪人の心からの祈りを喜ばれました。
私たちも、へりくだって「私をあれんでください」と心から祈りましょう。
Ⅱコリ 2:17 神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。
明日は祈祷会です。
この御言葉通り、神から福音を託されて遣わされた者として、人の前ではなく神の御前で、キリストにあって、キリストが内から語り出してくださいますように。
レビ 9:5 そこで彼らは、モーセが命じたものを会見の天幕の前に連れて来た。全会衆は近づいて来て、【主】の前に立った。真の礼拝とは、ただ教会に来て賛美を歌い、祈るだけではありません。
主の前に立って、賛美と祈りを心からささげる事、これこそ真の礼拝です。
申 12:5 ただ、あなたがたの神、【主】がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。
神は、ご自分の聖なる御名と祝福を置いた神殿を尋ねて、そこへ行くように命じておられます。
神殿、教会のうちに、祝福と恵みが満ちているからです。
今日は、たくさん雨が降りました。
鬱陶しい雨だな、と感じる方もあられると思います。
しかし、聖書の国イスラエルでは、地中海性気候で雨季と乾季があり、特に乾季には雨は「恵みの雨」なのです。
申 28:12 【主】はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。
皆さんの上に、皆さんの心に、恵みの雨が注がれますように。
詩 28:7 【主】は私の力私の盾。私の心は主に拠り頼み私は助けられた。私の心は喜び躍り私は歌をもって主に感謝しよう。
この詩篇が歌われた時代は、鉄の盾が貴重な時代でした。
ですから、鉄の盾は、とても大きな防御力をもっていました。
現代では、ジュラルミン製の盾があり、銃弾さえはじくことができます。
神の盾には、さらに大きな防御力があります。
私たちの心と魂をも、守ってくださるのです。
神の盾が、さまざまな敵からあなたを守ってくださいますように。
今週のテーマは、「礼拝」です。
詩 92:4 【主】よあなたはあなたのなさったことで私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを私は喜び歌います。
この詩篇の作者は、神の御手のわざを賛美しています。
賛美歌とは、本来神様をほめたたえる歌です。
心からの賛美を歌い、喜びが満ちあふれますように。
詩 28:7 【主】は私の力私の盾。私の心は主に拠り頼み私は助けられた。私の心は喜び躍り私は歌をもって主に感謝しよう。
この詩篇の作者ダビデは、多くの敵から攻められ、主君サウルから妬みにより命を狙われ、息子アブサロムから反逆され、多くの家臣から裏切られました。
しかし、ダビデが主に拠り頼んだとき、主はダビデを助けられました。
ダビデは心から歌いました。「主は私の力、私の盾」。
彼は誰よりも盾の重要性を知っていました。
そのダビデが、主こそ、私を助け支え導いてくださる神だと叫んだのです。
あなたの前にどんな敵が立ちふさがるでしょうか。
学校で、職場で、家庭で、妬み、裏切り、苦しみ、悲しみ、試練の敵に襲われるでしょうか。
神があなたの盾となり、力となってくださるように。
「主は私の力、私の盾」。
神は愛なり!
明日11時より、オープン礼拝をYOUTUBE配信します。
テーマは、「主は私の盾」です。
https://youtu.be/4fWBx2W915o
あらゆる試練や攻撃、悩み苦しみから守って下さる神の盾について学びます。
マタ 11:11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
洗礼者ヨハネは、「わたしはイエスの履き物のひもを解く値打ちもない」と言いました。
それほど彼は謙遜で、イエスの神としての偉大さを誰よりも知っていたのです。
イエスに、このように語っていただける人は幸いです。
ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」
旧約時代、民は子羊を自分の罪の身代わりとして献げていました。
ヨハネが言ったように、イエスこそ十字架の上で私たちの罪の身代わりとなってくださった神の子羊です。
マタ3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
「悔い改めなさい」という言葉には、ただ反省しなさいという意味だけではなく、「方向転換しなさい」という意味があります。
今日方向転換して、神の恵みの道を歩みましょう。
ルカ1:17 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。
洗礼者ヨハネの使命が記されています。
それは、救い主イエスが来られる前に、民の心を正しい心へ導くことでした。
私たちも神の前に、「整えられた心」となることができますように。
今日は、病院へ健康診断に行ってきました。
毎週、ご病人をお見舞いに来ていたことを思い出しました。
また、検査を待っている間、通院しておられる方々を見て、健康の大切さ、ありがたさを改めて思わされました。
今あることにいつも感謝しながら、日々歩んでいきたいなと思わされました。
Ⅰテサ5:16-8 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。
今週のテーマは、「洗礼者ヨハネ」です。
マル 1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。」
洗礼者ヨハネが、救い主が来られる前に来ると預言されていた先駆者であると、イザヤ書のみ言葉を引用して語られています。
私たちは、キリストがもう一度来られるために、最大限の準備を整える者とならせていただきましょう。
エレ 31:33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
「~しなければならない」という古い律法ではなく、新しい契約、愛と救いの教えを心に書き記す十字架の救いが成し遂げられました。
この愛の律法に、生きる者となりましょう。
メッセージの中で、先月亡くなられた恩師である先生について語りました。
先生は、私たちが大阪の教会に4年間いた時に、大変お世話になった先生です。
とても明るくパワフルで、合唱団のソリストであられた先生でした。
病の中で、先生はこう言われました。
「神様が介入しておられると感じている。イエス様はわたしと一緒に苦しんでいて下さる。信仰って、イエス様に与えていただくのね。ただ感謝なの、そして平安なの。」
苦しみの中で、イエス様が助け支え、苦しみを共にしてくださって、先生は感謝と平安のうちに天へ召されて行かれました。
私もこのように、試練、苦しみ、病と闘い、最後まで主に従い抜く者となりたいと願わされました。
詩 119:71 苦しみにあったことは私にとって幸せでした。
神は愛なり!
エレ 29:11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
今の現状がどうであっても、神は私たちに、平和と将来と希望を与える計画をもっておられます。
この約束のみ言葉を信じて、前進していきましょう。
今日用事があって、郵便局へ行って来ました。
その途中に保育所があるのですが、私の娘も通った保育所です。
グランドで元気に遊んでいる子供たちを見て、このようなコロナ禍ではあるけれど、元気にすくすく成長できますようにと願いました。
聖書はこう言っています。
マタ 19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」
エレ 18:6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか──【主】のことば──。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。
神は匠の陶器師であり、私たちを新たにすることは、いとも簡単なことです。
なぜなら、私たちは神の愛の手の中にあるからです。
Ⅰサム 3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」
預言者サムエルは、少年時代、主のみ言葉を与えられ、神の使命のために立り上がりました。
その時、師であるエリから、「【主】よ、お話しください。しもべは聞いております」と神に答えるように命じられました。
私たちの心の耳は、何を聞いてるだろうか。
周りの声ではなく、自分の心の声でもなく、神の御声にいつも耳を傾けたいと思わされました。
エレ 15:16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、【主】よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。
御言葉を食べるように、味わることができますように。
神の御名が、私たちの心に宿り、私の喜び楽しみとなりますように。
エレ 7:3 イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。
この御言葉を読んで、はっとしました。
改めるべきところがいっぱいあるな…と。
少しずつ、一つずつ、取り組んでいきたいと思わされました。
美しい花を見る機会が与えられました。
たくさんの花が植わっている花壇と、コスモスの群生を見て、とても心がいやされました。
明らかにカラフルで鮮やかなのは、花壇の花でしたが、私の心を感動させたのはコスモスの方でした。
人工的に植えられた花より、コスモスの美しさがきれいだなと素直にそう思いました。
御言葉を思い出しました。
マタ6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。
エレ1:7 【主】は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。
エレミヤが預言者に選ばれたとき、彼はまだ若く未熟者であったようです。
しかし、神は弱く経験のないエレミヤを用いて、神の救いの言葉を民に告げられました。
今週のテーマは、「エレミヤ」です。
エレ 1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
神は預言者エレミヤを、生まれる前から預言者として定めておられましたように、私たちをも生まれる前から知り、尊い使命と生きる意味を与えておられます。
イザ 40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。
鷲は、スズメと違い、何度も羽ばたかなくても、風にのって天高く飛ぶことができます。
全飛行の10%しか羽ばたいていないそうです。
私たちが自分の力で進めなくなったとしても、神が私たちに力を与えて進ませてくださいます。
困難な道も歩んでいくことができます。
このコロナ禍で、疲れてい人、くたびれている人もおられると思いますが、神の力が強めてくださるようにと願っています。
明日は、イザヤ40章31節を詳しく学びます。
学べば学ぶほど、掘り下げれば掘り下げるほど、素晴らしい恵みに満ちた御言葉だなと思います。
明日皆さんとこの御言葉を分かち合うことができるのを、とても楽しみにしています。
コロ 1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。
神との和解、すべてのものとの和解のために、十字架の上でイエスは尊い犠牲をはらってくださいました。
そのことのゆえに、すべての人が赦され、愛され、一つとなることができます。
エペ 4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。
教会において、学校・職場、家庭において、神による平和の絆で、すべての人が結ばれることができますようにと祈ります。
エペ 2:14参照 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(てくださいます)。 キリストは、私たちの平和そのものです。
キリストによって、神と私たち、憎しみ合っている二つのものが、和解して一つとなることができます。
詩 122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。」
神は、この地上に平和を実現するために、神の国を実現するために、エルサレムの平和を祈るように命じておられます。
それは、エルサレムから愛と平和の新律法が出され、キリストがエルサレムにもう一度おいでになるからです。
マルコ15:11 「しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。」
イエスが十字架にかけられるとき、過越しの祭りの恩赦のため、イエスとバラバが群衆の前に引き出されました。
バラバは、暴動を起し殺人を犯した極悪人であり、彼が赦されると、大変恐ろしい事件がまた起きる可能性があったのに、群衆たちは、イエスではなく、バラバを赦せと叫びました。
イエスのみ心が、どんなに痛んだことだろうかと、心が痛くなりました。
様々なものよりも、キリストを選ぶ者とならせていただきと願います。
ついつい忙しかったり、体が疲れていたりすると、負のオーラが出やすくなってしまうことを感じます。
本当に、周囲に愛の種を、平和の種を蒔く人になれますように。
その人がいるだけで、明るく和らぐ雰囲気がただようような人に変えられたいものです。
ヤコブ 3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。
私たちの周囲に、やすらぎと平和の種を蒔く人になりたいと願います。
今週は、「平和」というテーマでみことばを学びます。
詩 85:8 聞かせてください。【主】である神の仰せを。主は御民に主にある敬虔な人たちに平和を告げられます。彼らが再び愚かさに戻らないように。
愛の主が、私たちの生活の中に、平和を告げようとしてくださいます。
私たちの心と体が、いつも平和でありますように。
あなたの心と体が、いつも平和でありますように。
昨日は、久しぶりに教会のメンバーの皆さんと出会え、ともに礼拝をささげることができたことが本当に嬉しかったです。
皆さんの顔を見ながら、一つのみことばが心に示されました。
Ⅰコリ 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
「お一人お一人は、大切な存在なのだな。キリストの体、教会の大切な部分であって、すべて無くてならない存在なのだな」と思わされました。
心を一つにして、歩んでいく教会とならせていただきたいです。
ヨハ20:27-28「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
12弟子の一人であったトマスは、イエスの復活を信じることができませんでした。
そして、「私はイエスの十字架の傷跡に指を突っ込まなくては、決して信じない」と不信仰なことばを語りました。
しかし、イエスは、疑い深いトマスのために、トマス一人のために、もう一度弟子たちのところに来てくださいました。
ついいトマスの心の目も開かれて、彼は素晴らしい信仰告白をささげました。
「私の主、私の神よ」。
私たちも心の目が開かれて、イエスの内に輝く神の光を見ることができますように。
蔓延防止措置が解除となり、ようやく明日から教会で礼拝が再開となりました。
心から神様に感謝します。
皆さんと顔を合わせて礼拝をもてることがとても嬉しく思っています。
あふれる恵みが、お一人お一人の上に注がれますように。
ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。
キリストが十字架で流された愛といのちは、私たちを新たにして、生ける神に仕える者と変えてくださいます。
Ⅰテサ 1:9-10 私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるように…なったかを、知らせているのです。
私たちは、死んだ神ではなく、呼べば応えてくださる生けるまことの神に仕えているのです。
ロマ 14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
会社に仕えている人、上司に仕えている人、そのほか様々なものに仕え、すべてをすり減らしている人から相談を受けることがあります。
しかし、私はキリストに仕える喜びを日々感じていることを、心から主に感謝いたします。
ようやく蔓延防止措置が解除となりました。
日曜日に、皆さんと顔を合わせて礼拝ができることを心から楽しみにしています。
聖書は言っています。
マタ 18:20 「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」
どうか集まってささげる日曜日の礼拝の真ん中に、神が現存し、あふれるばかりの祝福を注いでくださいますように。
ロマ 14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
会社に仕えている人、上司に仕えている人、そのほか様々なものに仕え、すべてをすり減らしている人から相談を受けることがあります。
しかし、私はキリストに仕える喜びを日々感じていることを、心から主に感謝いたします。
ヨブ 36:11 もし彼らが聞き入れて神に仕えるなら、彼らは自分の日々を幸せのうちに、自分の年々を楽しみのうちに全うする。
神に仕える時、どんな中を通ったとしても、主は幸せ、平和、楽しみを約束していてくださいます。
士師記13章12節に、民の救い手として聖別された子サムソンを授かるとの約束を受けたマノアが、子供をどのように育てればよいか神に尋ねています。
自分に生まれた子供は、神から与えられたものである。
教会に連なっている子供、地域の子どもたちは、神より愛された子供たちである。
この認識のもとに、主の助けを受けながら、主に尋ね祈りながら、本当に大切に子供たちを育てていきたい、導びかせていただきたいと思わされました。
西日本は残暑が厳しいようですが、仙台は、少しずつ涼しくなってきましたね。
季節の変わり目、急な気温の変化で体調を崩さないように、どうぞご自愛ください。
皆さんがコロナから守られ、健康で過ごすことができますようにお祈りいたします。
今週のテーマは、「主に仕える」です。
ヨシ 24:22 ヨシュアは民に言った。「【主】を選んで主に仕えることの証人はあなたがた自身です。」彼らは「私たちが証人です」と言った。
民は、誰彼ではなく、主なる神を選び、主に仕えると告白しました。
私たちも、積極的に主を選び、仕える者となれますように。
同時多発テロでご主人をなくされたリサ・ビーマーさんから学びました。
彼女はには、二人に子供とお腹に新しい命が宿っていました。
「これからどうしていけばよいのだろうか…」
子供に聞かれないように、クローゼットの戸を閉め、涙が枯れるまで泣いたこともあったそうです。
しかし、飛行機の墜落現場に立った時、一つの賛美歌が心に迫ってきました。
♪静けき川の岸辺を、すぎゆくときにも、憂き悩みの荒海を渡りゆくおりにも、
心安し、神によりて安し
この讃美歌は、海難事故で4人の娘を一度に亡くしたスパフォードが作詞をした曲で、彼がその事故現場の波を眺めつつ、涙ながらに詩を書き留めたと言われています。
スパフォードを包んだ神の慰めが、リサさんを包みました。
リサさんはこう言っています。
「神様はわたしにこう語り掛けられました。、『わたしは…あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない』(ヨシュア1:5)。苦しみも悲しみも、すべてのことを益としてくださる神様にこそ、希望があると思わされました」。
リサさんを力づけた神の慰め、安らぎが私たちの上にもありますように。
明日紹介するリサ・ビーマーの言葉より
「私たちの前には、二つの道があります。一つは、失ったものだけを見つめていきること、もう一つは、今与えられているものを見つめて生きることです。私は希望をもって生きる道を選びました。」
Ⅰヨハ 4:7 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
ヨハネが書いた福音書、書簡には、神の愛に満ちたみことばがあちらかちらにちりばめられています。
それはヨハネの内から出たものではなく、神から愛が、愛のみことばがあふれ出たのです。
今日はオープン礼拝の案内を、以前来てくださったことのある方々へ投函に行きました。
2人の方がポストにテープが貼られ、引っ越されたようでした。
今まで他にも引っ越された方があり、このコロナ禍で体調を崩された方、施設に入られた方もあるのかなと心配になりました。
どうか皆さんの健康が祝されますように、お祈りいたします。
ヨハ 21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
ヨハネは、イエスから愛された弟子であり、イエスを誰よりも愛した弟子でした。
私たちも主から愛される者、主を愛する者とならせていただきましょう。
ヨハ 19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
ヨハネは、自分も捕らえられることを恐れず、十字架のそばに最後までたち続けました。
そして、イエスの愛の御声を直接聞いたのです。
私たちも主の十字架のもとにおり続け、注がれる愛に満たされることができますように。
マルコの福音書5章25節以下に、長血をわずらっている婦人のいやしの物語が記されています。
この婦人は、 「あの方(イエス)の衣にでも触れれば、私は救われる」と信じて触れ、素晴らしいいやしの救いを体験しました。
私たちは現代においてイエスに触れることはできませんが、祈りにおいて、イエスの神性、本質に触れさせていただきたいと願います。
「さわった人たちはみな癒やされた。」マルコ6:56
みことばのとおりになりますように。
マル 3:17 ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
12弟子の一人であったヨハネですが、「雷の子」というあだ名をつけられたほど、気性が激しかったようです。
この雷の子が、愛の使徒に変えられた現実を見る時、神の愛の素晴らしさを知らされ、希望が与えられます。
今日は祭日だったので、家族で大きな公園に行き、人のいない隅の空き地で、野球をしたりして遊びました。
その後、近くの河原で石積みをしました。
わたしが13個で一番多く石を積むことができました。
勝利の要因は、一番下に大きくて平らの石を土台にしたことでした。
ふと聖書のみことばを思い出しました。
エペ2:20 「キリスト・イエスご自身がその要の石です。」
キリストを土台として、日々の歩みの要としたいと思わされました。