ルカ 4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
イエスがこの世に来られたのは、福音を宣べ伝えるためでした。
「福音」とは、「喜びの訪れ」という意味です。
この暗い世の中に、主は喜びの訪れを告げ知らせてくださいます。
どうか悲しみ、弱さ、悩みの中にある人に、福音が与えられますように。
ルカ 4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
イエスがこの世に来られたのは、福音を宣べ伝えるためでした。
「福音」とは、「喜びの訪れ」という意味です。
この暗い世の中に、主は喜びの訪れを告げ知らせてくださいます。
どうか悲しみ、弱さ、悩みの中にある人に、福音が与えられますように。
今日はもう29日ですが、寒波が来ていたのと雪が積もっていたので、教会のツリーのイルミネーションを今日片づけました。
星形のイルミネーションから、光の筋が流れている形に電飾を飾っているのですが、ビニールテープで止めています。
毎年強風で外れてしまい、毎年貼り直していたのですが、今年は大丈夫でした。
新しいビニールテープを買ったのですが、やはり古いテープとは粘着力が違って大丈夫だったようです。
新しいことって大事なのだなと気づかされ、その時、自分自身の古い考え、今までのやり方に満足しないで、本当に新しい自分、新しいことにチャレンジしたいと思わされました。
大切にしないといけないことは変えずに忠実に貫きながら、変えるべきところは刷新して、新しい年が祝福の年となるようにチャレンジしていきたいです。
Ⅱコリ 5:17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
ルカ4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」
キリストが遣わされた目的が記されています。
それは、良い知らせ(福音)を伝え、聖霊の油を注ぎ、思い悩む心を自由に解放し、主の恵みを与えるためです。
ヨハ 5:43 わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。
キリストは、父(神)の名によっておいでになりました。
しかし、当時の人々は、キリストを受け入れませんでした。
私たちは、キリストを信じ受け入れ、キリストと共に歩むことができますように。
「闇」という時、東日本大震災のことを思い出しました。
大地震が起こった時、私は生まれたばかりの娘と合うため、病院にいました。
その時、激しい揺れが起こり、待合室は大パニックとなりました。
皆無事であったので急いで教会へ帰ろうとしましたが、車は立体駐車場に停めていたためおsとに出せず、3時間かけて歩いて帰りました。
もう薄暗くなっており、中に入ると、すべての部屋の物が倒れたり壊れたりしていました。
少し片付けたなら、すぐに日が暮れて真っ暗になってしまいました。
仕方なくろうそくを探し、火を灯したとき、何とも言えない安心感を感じました。
いま世界を闇が覆っていますが、光はその中で、強く輝くのです。
ヨハ 1:5 「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
神の愛の光り、希望の光が、今こそ鮮やかに輝いてくださいますように。
今週のテーマは、「遣わされた者」
ヨハ 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
キリストがこの世に遣わされた(おいでになった)のは、この世を救うためでした。
キリストは私たちを滅ぼし、罰を与えるためではなく、愛の救いを与えるために来てくださったのです。
今年最後の礼拝でした。
ヨハ 8:12 「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
「世」コスモスという言葉は、「世界中のすべての人」を意味します。
神は、すべての人に、私に、あなたに、神の命の光を輝かせてくださいます。
神に従い、神に頼る人は、決して闇の中を歩むことがないと宣言されています。
神の光に照らされて、希望と祝福の道を歩んでいきましょう。
メリークリスマス!
ヨハ 1:14 ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
キリストは、神であられたのに人間となられ、私たちの間に住んでくださいました。
見えない神が見える存在となってくださたのです。
この方は、栄光と恵みとまことに満ちています。
クリスマスの祝福が、皆さんにありますように。
ルカ 2:38 ちょうどそのとき彼女も近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。
女預言者アンナは、救い主を礼拝しました。
彼女について、「やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた」と記されています。
いつも祈り神に仕えていたので、救い主に出会う恵みを受けたのです。
また、彼女は受けた恵み、喜びを、人々に告げ知らせました。
アンナのような忠実な歩みをする者となりたいと願わされます。
「クリスマス」とは、どういう意味か知っていますか?
クライスト・ミサ、キリストのミサ(聖餐式、礼拝)という意味です。
ミサ(聖餐式)では、キリストの象徴であるパンを食べます。
キリストが生まれた町は「ベツレヘム」で、ベイト・レヘム、パンの家という意味です。
そしてキリストは、馬小屋の飼い葉桶の中に寝かされたと聖書は記しています。
これらのことは、同じ一つの意味を持っています。
イエスは、私たちの心の糧、命のパンとなるために、人間となってこの地上に来てくださいました。
キリストを信じて心に迎えましょう。
私たちはキリストの内から、栄養を、命を祝福をいただくことができます。
ルカ2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。」
老預言者シメオンの言葉です。
彼は年老いてもずっと長い間、救い主を求めていました。
そして、ついに神殿で救い主イエスに出会ったのです。
その時、言ったのがこの言葉です。
彼は切に求めていたこと、節に求めていた方に出会い、「もう死んでも良い」との意味の言葉を語りました。
人生の最後に、このようにイエス人は何と幸いでしょう。
マタ 2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
博士たちは、自分たちの信仰として、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。
クリスマスは、クリストのお誕生日です。
私たちの信仰を、愛と祈りを、お生まれくださった主にお献げしましょう。
ルカ2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
天使は、救い主が生まれることを羊飼いに告げました。
不安と恐れを感じている羊飼いに、「恐れることはありません」と告げました。
また、生まれるイエスこそ、主(神)、キリスト(救い主)だと語りました。
この神によって与えられる喜びの訪れが、今日あなたの心の耳にも届けられますように。
今日は用事で、町の中心部まで車で出かけたのですが、同乗者の方々と年齢と共に様々なところが衰えてくるなという話になりました。
物忘れをしてしまう、なかなか名前がでてこないなどと話し合い、歳は取りたくなという結論になりました。
私も今は40代ですが、あと数日で50代になってしまいます。
本当に歳は取りたくないですね。
しかし、聖書はこう言っています。
Ⅱコリ 4:16 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
個人差はあっても、すべての人の肉体は衰えていきます。
しかし、私たちの内なる人、霊魂は、日々新たに強められていきますように
日本で初めてのクリスマスについて紹介します。
1549年、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられました。
1552年、ザビエルが山口でクリスマスの礼拝をおこなったのが、日本で初めてのクリスマスだと言われています。
もう20年ほど前になりますが、私も山口の教会にいて、ザビエルがいた教会の跡地を訪れ、当時の事を黙想したことが懐かしく思い出されます。
1612年、キリシタン禁教令が出され、キリスト教もクリスマスも禁止されました。
時代は進み、1893年ごろ、明治初期ですが、あの松尾芭蕉が、クリスマスについて詠った俳句が残っています。
「臘八(ろうはち)のあとにかしましくりすます」
1900年初頭には、クリスマスは一般的になっていたという専門家もいます。
1926年12月25日、大正天皇が亡くなられたので、翌年12月25日は休日になりました。
クリスマスの日が、休日になったことにより、ますますクリスマスの習慣が広がったそうです。
ちなみに、1961年、学校の教科書にきよしこの夜が載せられ、多くの子供たちがこの讃美歌を学校で歌いました。
60代から70代の方は、学校できよしこの夜を歌った方もおられるかもしれません。
クリスマスの恵みが皆さんにありますように。
イザ 9:6 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
お生まれになった救い主は、私たちに助言を与え、力を与え、永遠に変わることなく平和を与えてくださる神ご自身です。
このクリスマス、お生まれくださった主イエスを、心から礼拝しましょう。
クリスマスオープン礼拝YOUTUBE配信について、上手くいかず大変失礼いたしました。
以下に編集動画がアップされています。
良ければご覧ください。
https://youtu.be/JMYc5Yd6Tf4
クリスマスの喜びがありますように。
きよしこの夜について、詳しく紹介しました。
きよしこの夜は、1961年、教科書に載せられ、学校で歌われたことにより広く知られるようになったそうです。
NHKの朝のドラマで、印象的なシーンがありました。
夫を戦争で失ったヒロインが、ある日進駐軍のクリスマスパーティーに行きました。
敵の国のパーティだからと立ち去ろうとしたとき、きよしこの夜の歌声が聴こえてきました。
聴いているうちに、彼女の目から涙が流れ出し、聴いていたアメリカ人たちも、涙を流していました。
彼女を誘った米軍将校は、「大切な人を想いながら聴いているのです」と語りました。
彼女は滂沱と涙を流し、やがて笑顔となり、前向きに生きていくようになります。
このクリスマス、愛する人、失った人を想いながら過ごすことができますように。
愛する人たちが、健康でクリスマスの愛と祝福に満たされるように祈りましょう。
イエスは言われました。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ヨハネ13:34
イザ 42:1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。
救い主キリストは、主のしもべだと預言されています。
しもべとは、主人の意思のままで行動する人です。
わがままに歩むのではなく、神の御心のままに歩む人が求められています。
主はその人を用い、祝福を注いでくださるでしょう。
ミカ 5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
ベツレヘムの町に、救い主がお生まれになるとはっきり預言されています。
イエスは、ベツレヘムでお生まれになり、約束の救い主であることを示されました。
「ベツレヘム」とは、「パンの家」という意味です。
イエスは私たちの心の糧となるために、私たちの心に宿るために、この地上にお生まれくださったのです。
イザ11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
11:2 その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。
エッサイは、ダビデ王の父です。
神は、ダビデの子孫から「若枝」、救い主が生まれると預言しておられます。
救い主は、主の霊がとどまっているお方です。
私たちも、この知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる知識の霊に満たされることができますように。
イザ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
「インマヌエル」とは、「神は我々と共におられる」という意味です。
お生まれになる救い主は、私たちといつも共にいて、私たちを支え力づけてくださるお方だと預言されています。
申 18:15 あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。
モーセのような救い主が起こされると、キリストの誕生が預言されています。
モーセは、エジプトからイスラエルを救い出した預言者でした。
キリストは私たちを、罪から悩みから救い出す救い主です。
先週、「誠実に歩む」というテーマで書きましたが、今日も改めて誠実に歩む大切さを知りました。
今日は、本当に風が激しかったですね。
教会は、一番高いところにあって遮るものが何もないので、建物が揺れるほどの暴風でした。
教会の前の大きな木に、イルミネーションとモールを飾っているのですが、強風で飛んでしまわないかと心配していました。
ところが、夕方になっても、イルミネーションもモールも一つも飛んでいませんでした。
以前は、よく少しの風でモールが飛んでしまっていたのですが、それ以来、モールの端と真ん中を紐で木の葉に結ぶようにしていました。
準備はかなり時間がかかるのですが、誠実に丁寧に仕事をしておくと、結局は、後から困らないということを改めて思わされました。
誠実に日々を歩む者となりたいと思います。
また、しっかりと神様につながる者となることができますようにと感じました。
今週は、「メシア預言」キリストの誕生の預言です。
民 24:17 私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。
「彼」とは、救い主キリストのことです。
昔は航海や旅をするとき、夜は星が進むべき方向を教えてくれる道しるべでした。
救い主は、暗闇に輝く導き星です。
キリストが、あなたの進むべき道を指し示し、照らしてくださいますように。
今日のオープン礼拝で、一つの出来事を話しました。
スコットランドのグラスゴーで実際にあった出来事です。
あるお母さんが赤ちゃんを連れて親戚の家に行こうとしました。
ところが天気が急変し、吹雪となってしまいました。
お母さんは一生懸命歩きましたが、日が暮れて道に迷ってしまったのです。
次の日、捜索隊が二人を発見しましたが、びっくりしました。
お母さんが自分の服を全部赤ちゃんに来て、雪の中で亡くなっていたからです。
赤ちゃんは無事でした。
このお母さんの葬儀式を行った牧師は、大変感動し、ことあるごとにこの母親の愛について語りました。
何年も何年もたって、一人の青年が教会に入ってきました。
この日も、母親の愛について語られていましたが、青年は聞きながらぽろぽろ涙を流しました。
説教後、彼は牧師のところに飛んできて「私はその助かった赤ちゃんです。今日母の愛と、神様の愛に満たされました」と語りました。
母の愛は、この地上で最も大きな愛だと言われますが、神様はもっと大きな愛で私たちを愛してくださっています。
イザ 49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。
この大きな神様の愛が、クリスマスの愛が、皆さんの上にありますように。
コロ 1:27 この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
神が私たちに描いておられる計画とは、「心の中におられるキリスト、栄光の望み」だと語られています。
私たちの心に来てくださるキリストこそは、私たちの希望です。
このお方と、共に歩むことができますように。
数日間、ブログが投稿できず失礼しました。
明日、クリスマスのオープン礼拝があります。
YOUTUBE配信アドレスを以下の通りです。
もしよければ、ご覧ください。
12月12日(日)
(メイン)
https://youtu.be/MHNE1StMiaI
(サブ:メインが見られない時)
https://youtu.be/D9NAs-j5Ylw
クリスマスの愛が注がれますように。
ロマ 15:16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。
宣教者パウロは、同胞ユダヤ人だけではなく、ユダヤ人以上に異邦人のために福音を語るように神に任命されました。
パウロは主の期待に応え、多くの人に福音を宣べ伝えました。
私たちの周囲にいる愛する人々に、この喜びの訪れを伝えることができますように。
使13:47 主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」
13:48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。
これは宣教者パウロに言われた神のことばです。
パウロは、このみことば通り、地の果てまで福音を伝える者とされました。
私たちも、異邦人の光、神の光を存在をもって輝かせる人となれますように。
使10:33 「それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」
初めて異邦人で聖霊を受けたコルネリウスの言葉です。
彼はペテロを迎えて、与えられる神のことばを一言ももらさず受け取ろうと耳を傾けました。
彼は、神の御前に出ているかのような敬虔な思いで、みことばを待ち望みました。
私たちも同じ敬虔な思いで、神の言葉に耳を傾けましょう。
日曜日、秋田の礼拝に行きましたが、帰りの新幹線は大変込み合っていました。
隣の席にも年配の男性の方が座られ、コロナの感染も考えて、マスクを二重にしていて良かったと思いました。
その男性の方が途中から眠ってしまわれたのですが、間のひじ掛けに置いていた手が私の側にだらんと下がって入ってきたのです。
手が私の体と当たってしまうので、私はかなり窮屈な格好になって大変でした。
その方はやがて目を覚まされたのですが、多分こちらに手が入ってきていたことに気づいておられない様子でした。
その時ふと、自分も知らない間に、周囲の人にご迷惑をかけていたり、不快な思いをさせていることがあるかもしれないと気づかされました。
これからは日々、周囲に気を配りながら、誠実に歩んでいきたいなと思わされました。
マタ 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
カナン地方に住む異邦人の女性が、娘も癒しをイエスに求めました。
彼女は、イエスから無視され、拒否されましたが、なおあきらめずに求め続けました。
イエスこそ真の神であり、イエスには娘を癒すことができると信じていたからです。
彼女のように、イエス様に褒めていただける信仰を持つことができますように。
5日は、コロナ以来、久しぶりに秋田の礼拝に行ってきました。
顔をわせて礼拝をもつことができ、本当に感謝な集会でした。
マタ 2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
博士の礼拝を学びました。
私たちも博士と共に、真心からの信仰をおささげしましょう。
「わたしはあなたに、黄金を捧げます。あなたこそ黄金のように、永遠に変わらない神の子、王なるキリストです。」
「わたしはあなたに、乳香をささげます。あなたこそ乳香をもって、わたしたちのためにとりなしてくださる、大祭司なるキリストです。」
「わたしはあなたに、没薬を捧げます。あなたこそ没薬が示すように、WEへの愛のために、十字架で死んでくださった、愛なる救い主です。」
神は愛なり!
詩146:2 私は生きているかぎり【主】をほめたたえる。いのちのあるかぎり私の神にほめ歌を歌う。
いのちのある限り、順境の時も逆境のときも、いつもどんな時も、最後の一息まで主を賛美し続ける生涯は何と幸いでしょう。
教会で一番忙しいのは、クリスマスです。
「忙」は、心をほろぼすと書きますが、本当にその通りだと今日は思わされました。
5日(日)、コロナ以来久しぶりに秋田へ礼拝に行くのを、本当に嬉しく楽しみにしているのですが、忙しさのあまり大きな失敗をしてしまいました。
いつも心を落ち着け、静まって祈ってから何事もしないと、特に今はさらに大失敗をするかもしれないと思い、気を付けようと思います。
神様が、私の力となり助けとなってくださいますように。
詩 118:14 【主】は私の力またほめ歌。主は私の救いとなられた。
主こそ、私たちの力であり、ほめ歌(賛美)であり、私の救いです。
この御方をいつも賛美することができますように。
詩 116:13 私は救いの杯を掲げ【主】の御名を呼び求めます。
10節から11節にこう記されています。
私は大いに苦しんでいました。この私は恐れうろたえて言いました。「人はだれでも偽りを言う」と。
苦しみ恐れうろたえ裏切られていたこの詩篇の作者は、神より力を与えられ、救いと喜びの杯を上げて、主の御名を呼びました。
誰しもが通る道だと思わされますが、主の助けを受け、私たちも救いと歓喜の杯を掲げることができますように。
詩 115:1 私たちにではなく【主】よ私たちにではなくただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。
「帰す」ヤーハヴとは、「与える、ささげる、帰する、起因する」と訳されている言葉です。
栄光はすべて神に起因するのだから、栄光を神に帰らせよう、ささげようとの意味になります。
私たちを愛し、私たちを支え見守ってくださる神に、栄光を帰すことができますように。
教会の建物と木に、ささやかですがイルミネーションを飾りました。
木が高くなりすぎて、イルミネーションやモールを付けるのが大変で、脚立の天板の上に立ってぎりぎり飾りつけることができました。
今頃は早く日が落ちて暗くなりますが、その暗闇の中でイルミネーションが明るく光り輝いていました。
聖書のみことばを思い出します。
「見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には【主】が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。」イザ 60:2
クリスマスの祝福の光が、皆さんの上にも輝きますように。