今週のテーマは、「御名」です。
イザ 42:8 わたしは【主】、これがわたしの名。
【主】とは、唯一の真の神のみに使用する聖なる言葉、聖なる御名なので、【】が付けられています。
聖書は3回、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」と約束しています(ヨエル2:32、使徒2:21、ローマ10:13)。
「わたしは主」と言われる主の御名を唱えて、神の祝福と現存を豊かに受けることができますように。
今週のテーマは、「御名」です。
イザ 42:8 わたしは【主】、これがわたしの名。
【主】とは、唯一の真の神のみに使用する聖なる言葉、聖なる御名なので、【】が付けられています。
聖書は3回、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」と約束しています(ヨエル2:32、使徒2:21、ローマ10:13)。
「わたしは主」と言われる主の御名を唱えて、神の祝福と現存を豊かに受けることができますように。
預言者エリヤの祈りを学びました。
エリヤは、どちらの神が真の神か、どちらの御名が本物か、偶像の預言者と対決しました。
エリヤは言いました。「おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は【主】の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」Ⅰ列王 18:24
エリヤは、主の御名を呼んで、神の火を求めました。
「私に答えてください。【主】よ、私に答えてください。」18:37
すると、主の火が降り、ささげ物、石、溝の水もすべて焼き尽くしました。
それを見た民は言いました。「主こそ神です。主こそ神です。」18:39
神の愛の火、聖霊の火を求めて、主の御名を唱えて祈りましょう。
神の愛の火は、私たちの心にあるすべてのものを焼き尽くし、愛に燃える心と変えてくださいます。
ヨハ 12:13 「なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。『ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。』」
十字架にかかる前に、イエスがエルサレムに入城される時、群衆が叫んだ言葉です。
彼らはイエスに対して、「主の御名によって来られる方」と叫びました。
イエスこそ、主の御名によって来られ、主の御名を現すために来られた救い主であると叫んだのです。
神が羊飼いに例えられている有名なみことばです。
詩編
23:1 【主】は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも【主】の家に住まいます。
ヨハ 10:11 「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」
聖書では、キリストを牧者(羊飼い)、私たち人間を羊に例えています。
良い牧者が、羊が迷わないように導き、外敵から守るように、良い牧者であるキリストは、私たちを正しい平和な道へ導き、様々な試練から守ってくださいます。
ヨハ 9:7 「『行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。」
イエスは盲人に、シロアム(遣わされた者の池)へ行って目を洗うように言われました。
盲人がその通りにすると、見えるようになったと聖書は記しています。
イエスこそ、神から遣わされた救い主であることを暗示しているのです。
ヨハ 7:16 「そこで、イエスは彼らに答えられた。『わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。』」
イエスが語られた教えは、自分勝手な教えではなく、父なる神の教えでした。
イエスは、神の教えを語り、神の教えに忠実に歩まれました。
私たちも、その教えの道を歩んでいきましょう。
ヨハ 5:43 「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。」
イエスはご自分が、父なる神の名によって遣わされた者であるとはっきりお語りになりました。
しかし人々は、イエスを信じようとしませんでした。
反対に、人間は真の神以外のあらゆるものを信じやすい者であることも語られています。
しっかりと真の救い主にのみ、心の目を向けましょう。
今週のテーマは、「遣わされた者」です。
ルカ 24:27 「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」
今日の箇所は、復活されたキリストがエマオに迎う弟子たちに、ご自分がモーセや預言者が預言している(旧約聖書のこと)神から遣わされた者(救い主)であることを説き明かされたみことばです。
キリストこそ、聖書が預言している約束された救い主であられます。
「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。」【口語訳】ルカ 12:49
昨日は、聖霊傾注記念礼拝でしたが、主が愛の恵みを注いで下さいました。
メッセージに取り組みながら、主の愛に迫られ、愛の大聖人となりたいとの願いが強くなりました。
そして、何よりも、イエス様が私たちに聖霊の火を注ぎたい、聖人にしたいと願っておられることを強く迫られました。
主の愛の火が、私たちの心を焼き尽くしてくださいますように。
3月6日に、もう一度聖霊傾注集会をもちます。
さらに主が恵みを注いでくださいますように。
箴 16:7 「【主】が人の行いを喜ぶとき、敵さえもその人と和らがせる。」
主に喜ばれる行いは、敵対しているような人の心でさえ和らがせることができると語られています。
そのような行いを実行する人になりましょう。
創 33:10 「ヤコブは答えた。『いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。』」
ヤコブは、兄エサウをだまして長子の特権と祝福を奪いました。
しかし、長い時間の後、兄エサウは弟ヤコブをゆるしました。
ゆるしを与える人の顔が、神の顔に例えられています。
憎むべき人をゆるす人は、何と幸いでしょう。
エペ 2:16 「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」
神は十字架の救いによって、敵対している二つのものを和解させてくださいます。
「敵意」「憎しみ」は、本当に厄介なもので、なかなか自分の力で打ち勝つこと、乗り越えることはできません。
しかし、十字架の大きな愛の力によるなら、敵意を滅ぼすことができます。
コロ 1:20 「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」
キリストは、十字架の血によって、神と私たちを和解させてくださいました。
すでに、このような大きな犠牲がささげられています。
何という神様の大きな愛ではないでしょうか。
受験シーズンとなりました。
私は推薦で入れる大学に進学したので、自分が別にやりたいと思っていなかった商学部に入りました。
4年間、あまり真剣に勉強したとは言えなかったかもしれません。
今、教会でも会計の締めの時期となり、宗教法人であるベタニヤ教会でも、収支計算書や財産目録の作成に追われていました。
でも、大学時代に学んだことが役に立って、何が後になって役に立つのか、何が益になるかは分からないのだなと思わされています。
聖書は言っています。「 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」ローマ 8:28
私たちに様々な出来事が襲ってきますが、そのすべてが祝されて神のもとに万事が益となりますように。
どうが受験生の皆さんが、コロナや病気から守られて、実力を発揮できますようにお祈りいたします。
今週は、「和解」というテーマです。
Ⅱコリ 5:20 「私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」
神ともめてはいないのにと思うかもしれませんが、神と私たち人間は罪によって断絶してしまいました。
神は聖であられますから、一つの罪、嘘、憎しみでさえも神との間を隔ててしまうのです。
だから使徒パウロは、「神と和解させていただきなさい」と勧めています。
主は言われる、「今わたしは起きよう、いま立ちあがろう、いま自らを高くしよう。」イザヤ33:10口語訳
いよいよ来週は、聖霊傾注記念礼拝です。
神様が溢れるほどの祝福をもって、私たちの祈りに答えてくださるようにと願います。
主は、「今起き上がる」「今たちあがる」「今自らを高くする」と言われます。
神の救いは、いつかそのうちにではなく、「今」です。
「今」私たちの上に、聖霊の注ぎ、祝福の注ぎが与えられますように。
ルカ 9:23 「イエスは皆に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』」
私たちの歩み道には、必ず大なり小なり十字架があると思います。
イエスは、「十字架を負って従ってきなさい」と招いてくださいます。
私たちは一人で十字架を負うのではありません。
主が力を与えて助け、十字架を負わせてくださるのです。
マル 1:35 「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」
イエスは、朝早く祈ってから宣教活動を行っておられました。
祈りこそは、私たちの力です。
私たちも、朝まず心を静めて祈る時をもちましょう。
そこに祝福を得る秘訣があります。
詩 106:23 「もし神に選ばれた人モーセが滅ぼそうとする激しい憤りを収めていただくために御前の破れに立たなかったならどうなっていたことか。」
モーセは、あまりの罪と深さに裁きを受けようとしていた民のために、神の御前に立ってとりなし祈りました。
私たちの周囲にいる愛する人々のために、とりなし祈る人となりましょう。
ヨシ 3:5 「ヨシュアは民に言った。『あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、【主】があなたがたのただ中で不思議を行われるから。』」
イスラエルの民が、荒野での40年間の旅を終え、約束の地に入ろうとしてヨルダン川まで来たとき、主が民に命じられた言葉です。
主はヨルダン川の水を割って、民を約束の地に導かれました。
不思議なわざを行うために命じられたことは、自分自身を聖別することでした。
これこそは、神のわざを見るための秘訣です。
花粉症の季節がやってきました。
鼻はムズムズするし、目がかゆくて大変です。
この時期は、鼻づまりが一番苦しいです。
この1週間は、呼吸が苦しくて夜中に起きてしまい、土曜日は夜中の2時に目が覚めました。
私は夜中に起きるとすぐに眠れず、眠れたとしても眠りが浅いので、日中が結構しんどいです。
改めて、「眠れる」という当たり前のことが、実は当たり前でなく、ありがたい幸せなことなのだと教えられました。
また、年齢が上がると眠れなくなると言いますが、花粉症を通して、その大変さを実感しています。
経験してみないと、その人の大変さは分からないのだと言うことも教えられました。
症状が軽くてすみますように。
早くスギ花粉の時期が過ぎ去りますように。
今週のテーマは、「祭司」です。
黙 1:6 「また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくあるように。アーメン。」
神は私たちを、祭司としてくださいました。
祭司とは、神と人との仲保者となり、民のためにとりなし祈る人です。
私たちの周囲にいる愛する人々、悩みの中にいる人々のために、とりなし祈る人となりましょう。
マル 15:21 「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」
イエスが十字架を背負って、ゴルゴタの丘へ登っておられたとき、イエスは十字架の重みに耐えかねて3度倒れてしまわれました。
その時、偶然通りがかったクレネ人シモンが、無理やり十字架を背負わされました。
ロドリゲス師は、「十字架の分担の三段階」についてこう記しておられます。
第1は、義務で十字架を負う者、
第2は、十字架がくるときは喜んで負う者
第3は、神への愛のために十字架を抱きしめる者。
シモンは、無理やり十字架を負わされましたが、イエスの柔和、謙遜、愛の姿に魅了され、イエスを信じるようになり、家族も救われたと伝えられています。
「十字架なくば冠なし」という言葉があります。
主への愛のために、どんな十字架がやってきても喜んで負い、最後まで主に従う者となれますように。
マル 1:35 「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」
イエスの素晴らしいみ業としるしの原動力、それは祈りでした。
祈りこそは、神の力と祝福を引き出す秘訣です。
私たちもまず朝起きて、主の前に祈りをささげましょう。
そこに祝福の日々を歩む秘訣があります。
詩 119:130 「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。」
いつも日々のみことばを読んでくださり、ありがとうございます。
とにかく続けて学んでいくと、ある日「みことばの戸」が開いて、
みことばが私たちの心に光を放ってくださると約束されています。
「浅はかな者」とは、強い表現だと思います。
本当に鈍く愚かな者、いつまでたっても分からない者、変わらない者、失敗だらけな者にさえ、みことばを悟る知恵が与えられるのです。
みことばの光に照らされて、歩むことができますように。
ルカ 10:37 「するとイエスは言われた。『あなたも行って、同じようにしなさい。』」
イエスが語られた「親切なサマリア人」のたとえです。
ある旅人が強盗に襲われ大けがをしましたが、そこへ通りかかった祭司、レビ人は知らぬ顔をして通り過ぎて行きました。
ところが、普段から仲が悪かったサマリア人が、彼を助け、宿屋へ連れて行って介抱しました。
イエスは、このサマリア人のように、ご自分を憎み敵対する人をも愛し、救いを成し遂げてくださいました。
イエスは私たちにも言われます。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
ヘブル 10:7 「今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。」
詩編40:6-8から引用されたみことばです。
キリストは、この地上に来られた目的は、父なる神の御心を行うことでした。
自分のために歩まれたのではなく、イエスはこの地上生涯をただ神の御心を実現するために歩まれました。
私たちも自我で歩むのではなく、いつも神のみ心は何かを考えながら歩ませていただきましょう。
ヨハ 1:18 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
「説き明かされた」を、新共同訳聖書では「示された」と訳されています。
ひとり子の神(キリスト)が、言葉と存在とみ業をもって、父なる神について、私たちに説き明かしてくださった、示してくださったのです。