Ⅰテモ 6:16 「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」
キリストは、恵みと憐れみに満ち、誰でも近づくことができる愛の神です。
その一方で、近づくことができないほどの強烈な神性の光りの中におられる栄光と権威に満ちた神であられます。
この方に誉れがありますように。
Ⅰテモ 6:16 「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」
キリストは、恵みと憐れみに満ち、誰でも近づくことができる愛の神です。
その一方で、近づくことができないほどの強烈な神性の光りの中におられる栄光と権威に満ちた神であられます。
この方に誉れがありますように。
ヨハ 8:12 「イエスは再び人々に語られた。『わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。』」
イエスに従って歩む人は、闇ではなく、光の道を歩むことができます。
「わたしは世の光です」「我は世の光なり」と言われる主が、私たちの進む道を照らし、いのちの光をうちに与えてくださるからです。
今週のテーマは、「光」です。
ヤコブ 1:17 「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」
父である神には、変わってしまうことも、暗い影もありません。
光りを造られた創造主である神が、私たちに祝福と恵みを贈り物として与えてくださいます。
礼拝では、ヨハネ伝9章より、シロアムの池で起こった盲人開眼のしるしを学びました。
この人は、「イエスという方」(:11)「預言者」(:17)「神から出ておられる(方)」(:33)と、イエスに対する信仰が高められていき、ついに「主よ、信じます」(:38)と100点満点の信仰告白をして、肉眼と心の目を開かれました。
イエスこそ、私たちの心の目を開くことができる、真の救い主、真の神様です。
イエスは、今日目が見えず迷っている人を、見つけ出して言われます。
「あなたは人の子(わたし)を信じますか。」「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」(:35-37)
「見えるようになれ」(ルカ18:42)
キリストの本当の姿が見えるようになれ。
神は愛なり!
Ⅱヨハ 1:6 「私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。」
神が私たちに与えられる命令は、何か難しかったり、大変なことではありません。
それはただ一つ、神の愛のうちを歩む事、これだけです。
ロマ 8:35,37 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」
私たちに、苦しみが、迫害が、貧しさが、危険が襲ってくることがあります。
しかし、キリストの愛によって、そのすべてに圧倒的に勝利を取ることができると約束されています。
ああ、神は愛なり!
ヨハ 12:24 「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」
麦は、たった一粒でも地に落ちるなら、成長して豊かに実を結びます。
一人の人が、自己を犠牲とするとき、豊かな実を結ぶことができます。
愛の実を、喜びの実を、平和の実を結ぶことができます。
魂の救いという実を、結ぶことができます。
ヨハ15:12-13 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
私たちがいのちを捨てる場面はないかもしれませんが、それほどの大きな愛で愛し合うようにと命じられています。
キリストがいのちを捨てるほどに、私たちを愛してくださったからです。
ロマ 5:5 「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
失望している人、絶望している人に神は、聖霊を注いで神の大きな愛に満たしてくださいます。
8節にはこう記されています。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
しかも、罪人である時に、神様に背を向けているその人にこそ、神は愛を明らかにしてくださるのです。
ああ、神は愛なり!
今週のテーマは、「愛」です。
ホセ 6:6 「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」
神がお喜びになるのは、物質的なささげ物ではありません。
真実の愛であると語られています。
私たちにできる精一杯の愛を、神におささげしましょう。
そして、今週1週間、できる限り私たちの心の目を、いつもイエスに向けることができますように。
エゼ47:9 「この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。」
神の生ける水が注がれると、アラバの海がきれいになると預言されています。
「アラバ」とは、死海のことです。
死海は、塩分濃度が濃いため、生物が住めない死の海です。
しかし、聖霊の水が注がれると、全てのものが生きるようになります。
また、多くの生き物が群がり集まり、岸では毎月果樹が実ると約束されています。
私たちのうちに命の水が注がれ、この預言のみことばの通り、実現しますように。
使 19:11 「神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた。」
パウロの3回に渡る伝道旅行を通し、多くの人が救われ、多くの教会が建てられていきました。
それは、パウロの手を通して、神様の力あるみ業が行われたからです。
私たちの手を通しても、神様が働いてくださいますように。
使 16:9 「その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、『マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった。」
パウロは、救いを求めるマケドニア人の幻を見せられ、マケドニアへ福音を伝えるために向かいました。
そうして、マケドニア地方、アテネ、コリントへ福音は広がっていきました。
私の耳にも、この叫びが響いてきます。
私たちの周囲には、人知れず悩み、あなたが福音を伝えてくれるのを待っている人がいるのです。
使 14:10 「(パウロは)…大声で『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。」
パウロは3度、伝道旅行に出かけました。
そこで多くの人を救いに導き、各地に教会を築いていきました。
リステラでは、足の不自由な人を癒し、神様の栄光を現しました。
使 22:16 「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」
使徒の働き22章には、パウロのイエスとの出会いの証しが記されています。
彼が預言者アナニヤから語られたのが、今日のみことばです。
アナニヤは、主の御名を呼んで罪から清められるように命じています。
私たちも主の御名を呼んで、恵みの救いに導かれますように。
使 9:15 「しかし、主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」
迫害者サウロを、神は憐れみによって救いに導いてくださいました。
それだけではなく、神の福音の伝達者としてお選びになりました。
神の選びは何と憐れみに満ち、何と偉大であることでしょうか。
神はあなたにも、同じ選びの御声をかけてくださいます。
今週のテーマは、「使徒パウロ」です。
使 9:5 「彼が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」
パウロは、もともとサウロという名前で、クリスチャンを投獄し、教会を荒らしたような迫害者でした。
しかし、このサウロのもとにイエスが現れ、彼を救いに導かれました。
愛の神様は、どのような人も見捨てることなく、愛し救ってくださいます。
イザ43:19 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」
神は、新しい救いのみ業を行うことを約束されました。
目に進むのが困難な荒野に、祝福の道を開く。
水のない不毛の地である荒れ地、砂漠に、川を流れさせる。。
それは、常識ではあり得ないことですが、雨季にあるとワジと呼ばれる川が流れる場所もあります。
自然界でも実現するとしたなら、神が行われるなら、それは実現します。
私たちが、見たことも聞いたこともない新しい業を見ることができますように。
Ⅱ歴代 34:3 「彼の治世の第八年、まだ若いころに、彼は父祖ダビデの神を求めることを始め、第十二年にユダとエルサレムをきよめて、高き所、アシェラ像、刻んだ像、および鋳像を除き始めた。」
ヨシヤ王は、若いころ、堕落していたイスラエルの国から、真の神様が以外のものを取り除いて、神様を求めました。
神様は、ヨシヤ王とイスラエルを祝福されました。
私たちの内から、神様が喜ばれないものをすべて取り除いて、真の神様を求めましょう。
哀歌
3:26 「【主】の救いを静まって待ち望むのは良い。
3:27 人が、若いときに、くびきを負うのは良い。
3:28 それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。」
「若い時の苦労は買ってでもせよ」と言いますが、若い時ほど、様々なくびき、試練に出会うかもしれません。
いや、若くなくても、様々な試練に出会います。
その時には、ジタバタするのではなく、主を信頼して、静まって救いを待ち望むように勧められています。
申 8:5 「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、【主】があなたを訓練されることを知らなければならない。」
人の体が弱り歩けなくなる時、リハビリをし、訓練をする必要があります。
それはつらいこともありますですが、必要な訓練です。
同じように、神様は、私たちの心と魂を強め成長させるために、訓練されることがあります。
その時、神は訓練に耐えられる力を与えてくださいます。
詩 119:9 「どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。」
若い人だけではなく、すべての人が、清く正しい道を歩むために、あらゆる試練や誘惑から守られるために、必要なことはみことばによって歩むことです。
神のみことばに、大きな力があるからです。
伝 12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。
若いうちに、創造主、助け主、真の神を知ることは幸いです。
わざわいの日がきても、それを耐え忍び、苦難の中でも平和と喜びを見出すことができるからです。
今週のテーマは、「若者」です。
年齢の若い人へのみことばであるだけでなく、霊的に若者である私へのみことばであると捉えて学んでいきましょう。
父から子への勧めの言葉です。
「命令」「教え」「訓戒」は、時に五月蠅く(ウルサク)感じることもありかもしれません。
しかし、それらは、「ともしび」「光」「いのちの道」だと教えられています。
謙虚に、耳を傾ける者となりましょう。
ルカ 7:14 「イエスは言われた。『若者よ、あなたに言う。起きなさい。』」
昨日は、午後からリモートで全国中高生大会がありました。
全国から約140名が集まり、礼拝をし、グループトークをしました。
グループでは、現在のお互いの状況を語り合い、祈り合いました。
集会では、「若者よ、起きなさい」のメッセージに取り組みました。
死んでいた若者が、イエス様によって生き返りましたが、参加している若者たちが、
私たち一人ひとりが、生かされ、起き上がることができますようにと願いました。
イエスは今日も言われます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
我は主なり!
Ⅰコリ 1:23 「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。」
十字架の愛の福音こそ、私たちの力、私たちの愛です。
このキリストを、宣べ伝える者となれますように。
使 4:20 「私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」
このみことばは、ペテロとヨハネが捕らえられ、イエスの名によって語ることを禁じられたときに語ったことばです。
弟子たちは、危害を加えられることを恐れず、自分たちが見た福音を語らずにはいられないときっぱり語りました。
私たちも臆することなく、福音を語る者となれますように。
ロマ 10:14,15 「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。…『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです。」
私たちは、何かすごいこと、嬉しいことを知ったなら、黙っていられず、誰かに伝えたくなるでしょう。
どんな素晴らしい救いと喜びの知らせがあっても、伝える人がいなければ、誰もそれを聞くことはできません。
福音を伝える人の足を、神は喜んでくださいます。
ロマ 1:16 「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」
福音こそ神の力ですと記されていますが、それを引き出す秘訣は、信じることだと語られています。
イエスを神、救い主と信じる人に、神の偉大な力は注がれます。
マタ 9:35 「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」
イエスが、すべての町や村を残らず回って、福音を伝えてあちらこちらを歩き回られたことが記されています。
自動車がない時代に、どれほど大変だっただろうと思わされます。
しかし、イエスは愛に押し出されて、町々村々を行き廻り、病気やわずらいを癒して救われました。
今週のテーマは、「福音宣教」です。
使18:10 「わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」
このみことばは、私の心にことあるごとくチャレンジを与えるみことばです。
コロナ禍で本当に傷つき苦しんでいる人がいる中で、キリストの愛を求めている人がこの仙台の地に多くいることを心に迫られます。
どうか一人でも多くの人に、キリストの慰め、愛、救いが与えられますようにと願います。