新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
本年が、神の祝福に満ちた年となりますように。
◆エペ 2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
私たちが救われたのは、神の恵みのゆえ、神の賜物プレゼントだと語られています。
さらに神の恵みを求めて前進する一年となりますように。
新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
本年が、神の祝福に満ちた年となりますように。
◆エペ 2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
私たちが救われたのは、神の恵みのゆえ、神の賜物プレゼントだと語られています。
さらに神の恵みを求めて前進する一年となりますように。
◆使 13:43 「会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちがパウロとバルナバについて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みにとどまるように説得した。」
◆集会後、ついてきた人々に、パウロとバルナバが強調して説得したのは、
神の恵みにとどまることでした。
神の恵みに心を向け、感謝して恵みの中にとどまり続けましょう。
◆詩 34:8 「味わい見つめよ。【主】がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。」
◆主は、いつくしみ深く恵みにと愛に満ちた神です。
このお方に拠り頼む人、身をゆだねる人は幸いです。
主を親しく味わい見つめましょう。
◆エペ 1:7 「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」
◆私たちは、キリストの十字架の血の犠牲によって、罪の赦し、完全な贖い、素晴らしい救いを与えられました。
これは、私たちに何か資格があったからでも、私たちの行いによるのでもなく、ただ神の豊かな恵みによったのです。
神は愛なり
◆Ⅰコリ 15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
◆このみことばを語ったパウロは、リバイバルを起し、世界の宗教地図を塗り替えたパウロですが、その働きは自分とともにあった「神の恵み」によると言っています。
そうであるなら、私たちはたとえ無力でも大丈夫です。
すべてを神の恵みが助け、成し遂げてくださるからです。
今週のテーマは、「恵み」です。
◆Ⅱコリ 12:9 「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。」
◆神の恵みは、弱い時にこと完全に十分に現れます。
憐れみの神を、信じて見上げましょう。
あふれる恵みを、主は注いでくださるでしょう。
◆ルカ2:10,11「私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。…この方こそ主キリストです。」
◆クリスマス礼拝で、子どもたちが♪きよしこの夜の手話をしてくれました。
難しかったと思いますが、よく練習してくれました。
また、このようなコロナ感染状況なので、前もって賛美したものを録画して映像を流しました。
しっかり歌うようになってきて、嬉しく思いました。
イエスはこのクリスマス、大きな喜びを告げ知らせてくださいました。
この喜びが、皆さんの上に、愛する人々の上にありますように。
メリークリスマス!
クリスマスの祝福がありますように!
◆イザ 7:14 「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
◆「インマヌエル」とは、「神がわれわれとともにおられる」という意味です。
イエスは人間となってこの地上にお生まれになっただけではなく、死より復活して昇天し、今も生きておられます。
私たちの近くに、私たちとともに、いつもいてくださるのです。
ああ、神は愛なり!
◆マラ 3:1 「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の【主】は言われる。」
◆このみことばどおり、イエスは突然人間となってこの地上にお生まれくださいました。
「history」(歴史)とは、「His story」(彼:救い主の物語)という意味もあると語っている人があります。
あなたの物語(人生)の中にも、神が来てくださいますように。
共に歩んでくださいますように。
◆詩 130:6 「私のたましいは夜回りが夜明けをまことに夜回りが夜明けを待つのにまさって主を待ちます。」
◆夜回りは、夜明けを今か今かと待ち望みますが、彼らはその熱心さで救い主を待ち望みました。
私たちも、同じ熱心さで、キリストの救いを、キリストの再臨を待ち望みましょう。
今週のテーマは、「クリスマス(救い主待望)」です(補足)。
◆イザ 11:1 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
エッサイとは、イスラエル第2代の王ダビデの父です。
「若枝」とは、ダビデのことで、預言者イザヤも救い主はダビデ王の子孫から生まれることを、ここに預言しています。
実際イエスは、ダビデの子孫であるヨセフからお生まれになりました。
◆ミカ 5:2 「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
◆イエスがベツレヘムに生まれられたことには、大切な意味がありました。
第1に、預言者ミカが救い主はベツレヘムに生まれると預言しましたが、イエスは間違いなく救い主だということをあらわしています。
第2に、「ベツレヘム」と「パンの家」という意味です。
イエスは、私たちの心のいのちの糧となるために、人間となってこの地上にお生まれくださったことを示しています。
今週のテーマは、「クリスマス」です。
◆イザ 9:6 「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
◆700年前にイザヤが預言した、救い主誕生の預言のみことばです。
救い主が赤ちゃんとなってお生まれになる。
この方は、悩める私たちの助言者となり、全能の力を持った神であり、永遠の変わらないお方で、平和を実現してくださる救い主です。
◆シメオンと幼子イエスとの出会いを学びました。
シメオンは聖霊に導かれ、神殿で幼子イエスと出会いました。
彼は幼子を信仰をもって腕にいだき、叫びました。
「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」(ルカ2:29-30)
言い換えれば、シメオンは「もう死んでもよい」と言ったのです。
それほど鮮やかな神の子との出会いを与えられ、喜びと感謝にあふれてこう叫びました。
神との出会い、神とともに歩むこと、そこに真の喜び、人生の価値があります。
◆マタ12:40,41 イエス「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。…しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」
◆律法学者たちがイエスにしるしを求めた時に、イエスが言われたことばです。
人の子は、三日後に地の底から復活されるお方、預言者ヨナにまさる神ご自身であると、イエスは宣言されました。
◆ヨナ 3:5 「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。」
◆神に背いたヨナでしたが、再び神は彼を用いて、ニネベに遣わされました。
ヨナが神のことばを語ると、ニネベの人々は神を信じて悔い改めました。
その時、神は、ニネベの人々を赦してくださいました。
失敗し罪を犯しても、神に立ち返るとき、神は私たちを赦し救ってくださいます。
ヨナ 2:7 「私のたましいが私のうちで衰え果てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」
ヨナが弱り果てた時、あれこれに頼ったのではなく、主を思い出して、主に祈りました。
その祈りは、聖なる宮に座しておられる主のもとにまで届きました。
絶望の淵に沈む時、私たちはただ主に拠り頼み、主に祈りましょう。
主がその祈りに応えてくださいます。
◆ヨナ 2:2 「苦しみの中から、私は【主】に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。」
◆人々は、ヨナのことばどおりに彼を海に投げ込みました。
すると神は、大きな魚を遣わしてヨナを飲み込ませ、助けてくださいました。
ヨナが魚の腹の中で祈ったのがこの祈りです。
神は、絶望の底から祈る私たちの祈りも聞いてくださいます。
◆ヨナ 1:12 ヨナは彼らに言った。「私を抱え上げて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。私は分かっています。この激しい暴風は、私のせいであなたがたを襲ったのです。」
◆「この問題が起きたのは、私のせいです」とは、なかなか言えないこともあるかもしれません。
ヨナは、「自分を海に投げ込んでください」というほどに、自分の過ちの責任を痛感し、
悔い改めたのだと思われます。
神の前にも人の前にも、自分の過ちを認め、悔い改めて誠実に歩む人となれますように。
今週のテーマは、「預言者ヨナ」です。
◆ヨナ 1:3 「しかし、ヨナは立って、【主】の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。」
◆ヨナは、神のみことばに背いて、反対のタルシシュ行きの船に乗りました。
その結果は、大嵐となって船が沈みそうになりました。
神から背を向けて歩む時、人生に嵐が襲ってきます。
主の御顔の前を歩むことができますように。
今日は、羊飼いの礼拝を学びました。
羊飼いは、幼子イエスを最初に礼拝する恵みを与えられました。
けれども羊飼いは、家を持たず、当時行われた人口調査の数に数えられなかったような最下層の身分の人たちでした。
しかも、羊の世話があるので、ユダヤ教の宗教的掟を魔なることができない。
救いから遠い人とみなされていました。
しかし、この羊飼いたちが最初に救い主を拝む恵みを受けた。
ここに福音が、神の愛の選びがあります。
天使が告げた喜びの訪れは、今日あなたにも投げかけられています。
「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体(すべての人)に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
今日ダビデの町で、あなたがた(あなた)のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリスト(神、救い主)です。」ルカ2:10.11
神は愛なり!
◆ルカ 18:1 「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。」
◆2節以下に、「やもめと裁判官」のたとえが記されています。
不正な裁判官も、やもめがしつこく願ったとき、正しい裁判を
行ってくれました。
もし祈りがなかなか聞かれなくても、まして愛の神は、私たちが
祈り続ける時、応えてくださいます。
希望をもって祈り続けましょう。
◆ヤコブ 1:6 「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」
◆祈るときには、少しも疑うことなく、「神にはおできになる」と信じて祈りましょう。
神がその祈りを叶えてくださいます。
◆使 12:5 「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」
◆迫害を受けて牢に捕らえられていたペテロのために、教会では熱心な祈りがささげられました。
神はその祈りに応えて、ペテロを奇跡的に救い出されました。
祈りこそは、すべて束縛、困難から解放する力です。
熱心な祈りをささげる者となりましょう。
◆マタ 18:19 「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」
◆二人以上の人が集まって、心を一つに合わせて祈るとき、神はその祈りに耳を傾けてくださいます。
主はどんなに小さな集まりの祈りでも、喜んで応えてくださいます。
◆マタ 6:6 「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
◆祈る時には、見せびらかす祈りではなく、静まった場所で、神様と一対一になって祈りましょう。
神は、どのような小さな祈りをも、必ず聞いて報いてくださるからです。
今週のテーマは、「祈り」です。
◆ルカ 11:2 「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。』」
◆弟子たちが「祈りを教えてください」と願ったときに、イエスが教えられた祈りです。
「主の祈り」と呼ばれ、全世界の教会で毎礼拝ごとにささげられています。
(現在はコロナで自粛しています。)
父なる神、御名、天の御国のためにまず祈っています。
そして3節以下に、私たちの日常の信仰生活のために祈っています。
主のみ前に、日々祈りをささげる人となりましょう。
礼拝で、Y先生の体験談を話しました。
Y先生は神学生時代、病院の先生として週1回外来の勤務をしておられました。
そこで問題に巻き込まれ、「誰もわかってくれない」「何であの人はこんななのか」と
悩みもがいておられました。
そんな時、礼拝でヨハネ1章からロゴスの受肉についてメッセージを聞きました。
「ああ神様は、天から地の底まで下ってくださった。
私は無力な存在で、あの人も無力な無完全な存在である。
神は私もあの人も愛しておられる!
私は無。でも神は愛である!」
そのことを強く教えられて、神の愛とゆるしと喜びにあふれて、
歩めるようになったそうです。
キリストは私たちのために人間となり、低くなってくださいました。
それはただ、愛のためでした。
「ここに愛があるのです。神は愛です。」(Ⅰヨハ4:10,16)
神は愛なり!
Ⅱペテ 3:9 「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
神は、だれも滅びることなく、すべての人が神の愛と救いに導かれることを強く願い、私たちのために忍耐してくださっています。
神の愛のもとに帰って行きましょう。
詩 51:17 神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。
神が喜ばれるいけにえ(献げ物)は、物や金銭よりも、砕かれ謙った心です。
神はその心のうちに、あふれるばかりにゆるしと愛と救いを注いでくださるのです。
黙 2:5 「だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」
私たち人間は、どうしても失敗し、罪を犯し、誤った道を歩んでしまう時があるかもしれません。
大事なことは、どこから落ちてしまったのか、どこから道を間違えたのかを思い起こし、軌道修正することだと教えられています。
初めの純粋なあの行いを、あの感動を、あの愛を思い出しましょう。
Ⅰヨハ 1:9 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
私たちは弱い者ですから、過ちを犯したり、人を傷つけ、神の前に罪を犯すこともあるかもしれません。
そんなときは、神の前に自分を罪を告白しましょう。
主は私たちを、赦し愛してくださいます。
ルカ 15:18 「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。』」
この放蕩息子は、父が死んでからもらうはずの財産を生前に受け、放蕩三昧をして一文無しになってしまいます。
その時は、彼は自分の過ちを悔いて父の元へ帰りました。
その時、父は彼を赦し、再び彼を豊かな愛と祝福で満たしてくれました。
神の愛は、これよりもさらに大きい愛です。
ああ、神は愛なり
今週のテーマは、「悔い改め」です。
ホセ 6:1 「さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを…癒やし、私たちを…包んでくださるからだ。」
私たちは、主の方へ方向転換しましょう。
主は私たちの心と体を癒し、傷を愛で包んでくださるからです。
今週は、健康感謝礼拝でした。
K牧師は、脳梗塞から退院をされましたが、「難しい会話はできない、一人で出歩くことは危険」、と言われていました。
ところが、教会に戻ると、会計の仕事をし、近くの郵便局に行けるようになり、先週説教も語られたそうです。
広範囲の脳梗塞であったので、奇跡的な回復を与えてくださった主に感謝します。
イエスは言われました。
「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)
「神にはどんなことでもできるのです。」(マルコ10:27)
心と体が弱っている方がおられたなら、神のいやしの力が注がれますように願います。
神は愛なり!
詩篇 103:3 「主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やす」
主は、すべての罪を赦し、すべての病気を癒すと約束してくださっています。
今日は、健康感謝礼拝です。
主があなたの心と体を癒し強めてくださいますように。
ヨハ 5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
イエスは38年間病気で苦しんでいる人を癒されました。
歩けなかった彼が、歩けるようになりました。
主は、一歩も進めず倒れ込んでいる私たちを、起き上がらせてくださいます。
Ⅱ列王 5:14「 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」
難病に冒されていたナアマンは、ヨルダン川の水に7回身を浸すといやされました。
私たちも聖霊の水に、何度も浸透されて、身も心も清めいやしていただきましょう。
イザ 53:5 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
イエスは、私たちへの愛のために、釘で刺され懲らしめを受けてくださいました。
その打ち傷、愛のみ傷のゆえに、私たちは癒されることができます。
主の十字架を仰ぎ見ましょう。
ヨブ37:21,22 「今、光は見ることができない。それは雨雲の中に輝いている。しかし、風が吹いて雲を払いのけると、北から黄金の輝きが現れる。」
三浦綾子さんは、大変な試練と病を通りましたが、「『太陽はいつも雲の上に輝いている』ということばが好きです」と言っておられます。
光が少しも見えない中で、雲の上に必ず輝いている神の愛の光を、綾子さんは信じていました。
そして、神の愛の光を見出されたのです。
神の希望の光、愛の光が照らしてくださいますように。
礼拝では、三浦綾子さんについて学びました。
小説「氷点」が入選し、現在の価値で1億円を獲得した綾子さん。
しかし、その人生は波乱万丈でした。
肺浸潤、脊椎カリエス、愛する人の死、帯状疱疹、がん、パーキンソン病。
これでもかというほどに試練と病が襲ってきました。
そのような中で、綾子さんはみことばを引用してこういっておられます。
「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。」詩 119:71
なかなか言えることばではないと思いますが、神様の愛の力で一つひとつの試練を乗り越えた時、「苦しみは幸せでした」と言うことができたのだと思います。
私たちにも多くの試練、困難、病が襲ってきますが、主が私たちを守り救い出してくださいますように。
マタ5:9 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
平和をつくる人の幸いについて語られています。
その人は、「神の子ども」と呼ばれるほどに神に喜ばれる人、天国で光り輝く人となります。
それは何と幸いなことでしょう。
ロマ12:18 「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」
自分の周囲に、平和を保つ者となりたいと願います。
しかも「すべての人」と命じられています。
これはとても難しいことですが、気が合う人だけでなく、
合わない人、好意的でない人、マイナスを与えてくる人とも、平和を保つ人となれますように。
ルカ 10:5 「どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。」
聖書の国イスラエラルでは、「シャローム」(平和)と言って挨拶をかわします。
とても素敵な挨拶だと思います。
すべての人の家に、心に、「平安がありますように」と心から願います。
今週のテーマは、「平和」です。
ゼカ 9:10 「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る。」
今、ウクライナとロシアの間で、大きな争いが起こっています。
日本も決して他人事ではありません。
イスラエルの上にも、大きな危機が襲っています。
しかし主が、やがて平和を実現してくださることが預言されています。
この預言の通り、速やかになりますように。
神様は子どもたちの内にも働かれました。
高浜は小さな町ですが、「教会に行けばいのちのパンがもらえる」と子どもが子どもに声をかけ、100名以上の子どもが集まるようになりました。
小さい部屋に100名が集まったので、あまりの熱気に天井から結露でしずくが落ちて来た。
あるクラスでは、全員教会に来て救われているクラスもあった。
それほど多くの子どもたちが、永遠のいのち、聖霊をうけ救われて行きました。
ヨハ 6:68 「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」
私たちも、主のもとにきて祈り、いのちのパンである聖霊をいただくことができますように。
萩野牧師は、ついに神との出会いに導かれました。
その日、メッセージを聞いているうちに、「この歩くことができない乞食とは、私のことだ」と示され、「主よお救いください」と熱心に祈られました。
その時、萩野牧師の心の奥底から、「我、我、我は全能の神なり」と神の御名があふれ流れ出たのです。
このみことばが実現したのでした。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」使 2:21
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」ヨハ 7:38,39
私たちの心から、この生ける水の川、御名の川が流れ出ますように。
神は愛なり
礼拝では、今年70周年を迎える「高浜のリバイバル」について学びました。
その発火点となられた萩野牧師の証しから紹介しました。
萩野牧師は父の死後、長女として7人の兄弟の世話にあけくれられました。
そのため、つい家族にあたったりしてしまい、自分の心の中に罪の塊があることを感じられました。
ある日、義理で参加した教会の特別集会で、その力強くみことばに感動し、続けて教会に通うようになられました。
当時は10名くらいの信徒しかおられたそうですが、大雪の日も毎日教会に通って祈り、停電の時には、懐中電灯をもって集まって、「聖霊来てください」と祈られたそうです。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」ルカ 10:42【口語訳】
私たちもこのような渇きをもって、無くてならない救い、永遠のいのち、聖霊を求めて祈っていきましょう。
「聖霊来てください。」
ヨブ 42:5 「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。」
ヨブは突然の不幸、試練に見舞われ、つぶやいていました。
そのヨブが、ただ神について聞いているだけではなくて、その目で神を見たとはっきり語っています。
私たちも、聖書に出てくる神について読むだけでも聞くだけでもなく、心の目で鮮やかに神を見ることができますように。
創 32:30 「そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。『私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた』という意味である。」
ヤコブは、顔と顔を合わせて見るように神と出会いました。
そこにいのちの救いがありました。
私たちも顔を合わせて見るように、鮮やかな神との出会いを与えていただきましょう。
創 26:24 「【主】はその夜、彼に現れて言われた。『わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。』」
主はイサクに現れて、「わたしがともにいるから恐れるな」と告げられました。
主がともにおられることこそ、祝福を受ける秘訣です。
今週のテーマは、「神との出会い」です。
創 17:1 「さて、アブラムが九十九歳のとき、【主】はアブラムに現れ、こう言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。』」
主は「全能の神である」との名を示して、アブラムと出会われました。
彼はその時、新しい人「アブラハム」に変えられました。
神との出会いは、人を新たに変えることができるのです。
マタ19:19 「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
一人の人がイエスに、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた時、イエスが答えられたみことばの一つです。
映画「塩狩峠」のヒロインであるふじ子さんは、肺病を患ってしまいました。
しかし、一人の友が、気にすることなくふじ子さんに接し、親切に訪問してくれました。
彼女はクリスチャンであって、やがてふじ子さんも彼女を通してキリストの愛を知り、クリスチャンとなりました。
私たちの周囲に、孤独の中にある人、悩み苦しんでいる人はいないでしょうか。
私たちも存在とことばと行動をもって、愛を示す人になりましょう。
オープン礼拝で、三浦綾子さんの小説が原作である映画「塩狩峠」を見ました。
実話をもとにした映画です。
主人公の永野さんは、給与泥棒をした同僚のために、上司に土下座し、旭川への転勤を受け入れたシーンが描かれていました。
そして、塩狩峠で列車が逆走したとき、永野さんは線路に飛び込み、自分の体で列車を止めました。
自分を犠牲にして、乗客のいのちを助けたのです。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハ 15:13)
永野さんは、いつもこのみことばに生きていたのです。
このキリストの大きな愛に、私たちの生きる者となりましょう。
神は愛なり!
ルカ1:46,47 「マリアは言った。『私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。』」
頭ではなく、心の奥底から、魂の奥底から私たちの救い主、主キリストを賛美し礼拝しましょう。
申 10:21 「この方こそあなたの賛美、この方こそあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大いなる恐るべきことを、あなたのために行われた方である。」
主こそ真の神であって、私たちのために大いなる御業を行ってくださる真の神です。
このお方を心から賛美しましょう。
詩 84:4 「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。」
あなたの家とは、神の宮のことですが、神の愛のうちに、神の現存のうちにある状態であるとも解釈できます。
神の愛のうちにいる人はなんと幸いでしょう。
その人は喜びの賛美をいつも歌うことができるからです。
今週のテーマは、「神への賛美」です。
詩篇150:6 「息のあるものはみな【主】をほめたたえよ。ハレルヤ。」
この詩編には、「ハレルヤ」「主をほめたたえよ」ということばが13回も出てきます。
全能の力、比類のない偉大なみわざのゆえに、神を賛美しましょう。
息のある限り、いのちのある限り主を賛美しましょう。
ハドソン・テーラーは、18歳で中国に向かいました。
大変困難であり、試練と病にぶつかり、迫害のため死にかけたこともありました。
しかし、ついに神様が働いて中国人が救われていきました。
一人の中国人が、感謝を述べるとともに彼にこう訴えました。
「私の父は、救いを経験できなまま死んでしまいました。
なぜもっと早く来てくれなかったのですか!」
このことばを、生涯彼は心に刻み、「一人も滅ぼしてはならない」、これを生涯のモットーとしました。
私たちの周りに、悩み苦しんでいる人はいないでしょうか。
どうか神の愛を知る一人の人が与えられますように。
礼拝では、ハドソン・テーラーについて学びました。
ハドソンは、青年時代、神様から離れ、自暴自棄になっていた時代がありました。
その時、彼の母と妹が、ハドソンのために熱烈に祈ったのです。
ある休みの日、手に取った一冊の冊子を通して、彼の心に神の愛が注がれました。
「『成し遂げられた』と言われた十字架のイエスのことばが、心に迫ってきた。
それであるなら、私のなすべきことは、ただこの愛の救いを受け入れることだけである。」
母の涙の祈りによって、彼は神の大きな愛を知ることができました。
「成し遂げられた」(ヨハネ19:30新共同訳)。
あなたの救い、慰め、回復、勝利は、すでに成し遂げられています。
ああ、神は愛なり!
ロマ 12:1 「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」
私たちの手、足、思い、計画、心を主におささげすること、それこそ神が喜ばれる真の礼拝です。
ルカ 18:14 「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
神殿で二人の人が祈った時、主は自分のしたことを自慢げに祈るパリサイ人の祈りではなく、自分を低くして悔い改めの祈りをささげた罪人の祈りを喜ばれました。
心低くして主のみ前にひざまずき、自分を低くしながら主を礼拝しましょう。
ヨハ 4:24 「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
神は聖なるお方ですから、聖霊の助けを受ける時、真の礼拝をすることができます。
神の愛、真理、いのち、神性、真のみ姿を見ることができるのです。
ピリ 3:3 「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」
真の礼拝は、私たちの肉による感情的な礼拝でも自分で頑張ってする礼拝でもなく、聖霊によってささげられる礼拝です。
聖霊に助けられながら、真の礼拝を主におささげしましょう。
ヘブル 9:14 「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」
神であるキリストが十字架の上に献げられたのですから、その愛の血によって、私たちの心を清め、悪の道から離れさせます。
そうして、今も生きておられる神に仕える者とならせてくださいます。
主の十字架を、心から見上げ礼拝しましょう。
レビ 9:5 「そこで彼らは、モーセが命じたものを会見の天幕の前に連れて来た。全会衆は近づいて来て、【主】の前に立った。」
全会衆が主のみ前に立って、礼拝をささげた様子が記されています。
真の礼拝とは、全能の主の前に立って主を拝むことです。
この偉大な神の前に立っていることをいつも覚えて真の礼拝をおささげしましょう。
今週のテーマは、「礼拝」です。
黙22:3-4 「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」
天国の礼拝の光景が記されています。
神の国では、のろわれるような悪しき物は何もありません。
神の御顔の光を、鮮やかに見ることができるのです。
その額、心に神の御名が記されている者が、この礼拝にあずかることができます。
Ⅱテモ 4:2 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
神のことば、希望のことばを伝えましょう。
どんな時でも、どんな場所でも、忍耐して語り伝えることができますように。
Ⅱテモ 3:15 「また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」
聖書は神のことばですから、私たちに知恵を与え、力を与え、信仰を与えることができます。
テモテは、「聖書を読んできた」ではなく、「聖書に親しんできた」と言われています。
彼は神のことばに、生活の中で親しく読み、親しく歩んできたのです。
みことばに親しむ人となりましょう。
Ⅱテモ 2:3 「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。」
兵士とは、主人のために、民のために、命をかけて戦う人です。
キリストの兵士とは、キリストのためにその身をかけて働き、愛する人々の救いのために全存在をかけて戦う人です。
Ⅰテモ 4:12 「あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。」
テモテはその時若かったからか、人々に軽く見られがちだったようです。
ことば、態度、愛、信仰、純潔において、信仰の模範になることは何と素晴らしいことでしょう。
使 16:2 「彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。」
テモテは、周囲の人に良い印象を与えていました。
生活を通し、存在を通して、良い印象、キリストの香りを放つ人となれますように。
今週のテーマは、「テモテ」です。
Ⅱテモ 1:6 「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」
テモテは、パウロとともに福音宣教に励んだ人です。
パウロはテモテに、按手(手を置いて祈ること)によって与えられた神の賜物である聖霊の火を、燃え立たせるように勧めています。
テモテは愛に燃え、うちに与えられた愛の火を人々の心に点火していきました。
マタ 15:22 「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます』と言って叫び続けた。」
カナン人の女性は、娘がひどく苦しんでいたので、イエスのもとにきて懇願しました。
「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。」
彼女は、イエスから拒否されても、弟子たちから邪魔者扱いされても、なお諦めずに叫び続けました。
ついにイエスは、彼女の祈りに答えて、娘の病気をいやしてくださったと聖書は記しています。
私たちも、イエスを心から真の神様と信じ、あきらめずに祈り続けましょう。
愛の主は、私たちの祈りに答えてくださいます。
神は愛なり!
Ⅰヨハ 5:5 「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」
この世のあらゆる煩い、問題に勝利する秘訣は何でしょうか?
イエスを神と信じる人です。
その人は、イエスより偉大な神の力を引き出すことができるからです。
ロマ 4:13 「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。」
イスラエルの太祖アブラハムが、神の祝福の相続人とされたのは、掟を守ったからではなく、神のあわれみであり、彼の信仰が義と認められたからでした。
神に、その信仰が義であると認められる人は何と幸いでしょう。
生きた信仰に生きる者となりましょう。
ルカ 1:45 「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
神が語られたことばは、必ず実現します。
どんな困難の中でも、神の約束を信じて歩む人は何と幸いでしょう。
ハバ 2:4 「しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
4節の前半には、「見よ、その魂の正しくない者(高慢な者)は衰える。」【口語訳(新共同訳)】と記されています。
しかし、信仰によって生きる人は、正しく歩み、神の祝福によって堅く立つことができるのです。
ヘブル 11:6 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」
私がこの半年ほど、事あるごとに心で繰り返しているみことばです。
神に喜ばれる人、神に近づく人はどんな人でしょうか。
神がおられ、神が近くに、私の内におられることを信じる人。
キリストは全能の神だから、祈り求める時に報いてくださると信じる人です。
おことば通りになりますように。
今週のテーマは、「信仰」です。
ヘブル 11:1 「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
信仰とは、何と尊いものでしょうか。
私たちが願っていること、まだ全く私たちに見えていないものを、確信することが真の信仰だと語られています。
真の信仰を与えていただきましょう。
今日は、ダニエルの信仰を学びました。
ダニエルは、バビロンに捕囚となっていましたが、神の助けを受け、やがて大臣に任命されました。
しかし、それをねたんだ他の大臣たちに貶められ、彼は獅子の穴に投げ込まれてしまいました。
ダニエルを心配した王が、翌朝早く獅子の穴に向かうと、ダニエルは無事で、傷一つ受けていませんでした。
神が彼をお守りになったからです。
「彼が神に信頼していたからである。」(ダニエル6:23)
私たちも様々な試練に襲われる時があるかもしれませんが、全能の神様に信頼しましょう。
「あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩
37:5)
神は愛なり!
コロ 1:20 「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。」
キリストは十字架の救いによって、私たち人間を、被造物(動物も自然も宇宙)を和解させ、回復させてくださいます。
そして、人間を、この世界を新たにし、平和でもはや涙がない神の国を実現してくださるのです。
エペ 4:3 「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」
神に喜ばれる魂、神を喜ばせる教会となる秘訣が記されています。
愛と平和の絆で互いに結ばれ、聖霊によって一つとなりましょう。
その時、揺るがない教会となることができます。
エペ 2:14参照 「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊されました。」
キリストは、敵意によって仲たがいしている二つのものを、壁を壊して一つにしてくださる平和の神です。
キリストこそ、私の平和、あなたの平和となりますように。
詩 122:6 「エルサレムの平和のために祈れ。『あなたを愛する人々が安らかであるように。』」
神の都エルサレムに平和あるよう祈れ、と命じておられます。
その時、エルサレムは平和のセンターとなり、愛と平和の律法が全世界にのぞむからです。
心から平和を求めて祈りましょう。
ヤコブ 3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。
義の種、平和の種は、短期間で実を結ぶのは難しいかもしれません。
忠実な祈りと奉仕によって、それは実現していきます。
今週のテーマは、「平和」です。
詩 85:8 「聞かせてください。【主】である神の仰せを。主は御民に主にある敬虔な人たちに平和を告げられます。彼らが再び愚かさに戻らないように。」
主は、私たちに平和を告げてくださる平和の主です。
世界に争いが満ちていますが、人間が愚かな行為を行わないように、広がらないように、平和を心から祈ります。
先日の聖職者会で聞いたお勧めを、礼拝で紹介しました。
ペテロはイエスに信仰を告白しました。「あなたは、生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)。
その時、イエスは言われました。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」。
イエスこそ、私たちの信仰の土台、教会の土台です。
人々が次々に救われる時、そうでない時、様々な時があるでしょう。
しかし、主に信頼するなら、決して教会は衰えることがありません。
倒れることがありません。
ペテロのように、信仰を告白しよう。
「あなたは、生ける神の子キリストです。」
Ⅱテサ 1:10 「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。」
主が再臨された時、私たちは主を心から礼拝をして崇め、感嘆し感動し、大きな喜びに満たされます。
その日が速やかに来るように、祈り待ち望みましょう。
Ⅱペテ 3:12 「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。」
神の救いの日が来るように、心から待ち望みましょう。
さらに待つだけではなく、その日が速やかに来るように祈りをささげ、愛する人たちの救いのために働くことができますように。
ヘブル 10:37 「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。」
「遅れることはない」とキリストは言われます。
いつキリストが再臨されても良いように、心を準備して日々を過ごしましょう。
黙 22:20 「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」
キリストは、「わたしはすぐに来る」と言われました。
平和の主をお迎えするために、主を待望する祈りをおささげしましょう。
ヘブル 9:28 「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」
キリストは十字架で多くの人の罪の身代わりとなるために、人間となっておいでになりました。
2度目には、私たちの救いのために再び来てくださるのです。
今日は、歯医者へ行ってきました。
上の前歯の穴が開いているのに気が付いて、急いで治療に行ってきました。
レントゲンを撮ってもらいましたが、前歯の約4分の1が虫歯にやられて空洞になっていました。
全然痛くなかったので気が付かなかったのですが、神経にまで達していて、歯医者さんが「どうしてこれで痛くなかったのか」としきりに首を振っておられました。
私は昨年50歳になり、市から無料歯周病健診の案内はがきが届いていました。
でも、コロナ禍であり、行こうかどうしようと思っているうちに期限が近づき、慌てて電話をしたら予約がいっぱいだということで、結局検診は受けられませんでした。
思えば昨年、ちゃんと健診を受けて入れば、こんなにひどい状態にはならなかったのにと思わされましたが、「後悔先に立たず」です。
改めて、一つひとつをきちんと真面目にすることの大切さを教えられました。
今は大変で面倒に思えても、勉強、仕事、人とのつながり、健診、すべてきちんと真面目忠実にすることをお勧めします。
そうしないと、結局失敗し、後悔するのは自分なのですから。
ルカ 16:10 「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」
使 1:11 「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」
イエスが昇天された時、天使が弟子たちに告げたことばです。
今、天に上げられらたのと同じ有様で、平和を実現するためにイエスは再びこの地上においでになる、と約束されています。
その日が、速やかに来ますように。
今週のテーマは、「キリストの再臨」です。
マラ 4:2 「しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。」
神はこの暗闇の世に光をもたらすために、義の太陽が昇る(キリストが再臨される)と約束しておられます。
「再臨」とは、復活して天へ昇天されたイエスが、平和と神の国を実現するため再びこの地上においでになることです。
その時、子牛が跳ね回るように、喜び踊ると約束されています。
エレ32:17 「ああ、【神】、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。」
今日のみことばは、エレミヤがささげた祈りの冒頭の部分です。
エレミヤは、多くの困難を通りましたが、神の全能のみ力に信頼していました。
天地を創造された神に、私たちも心から信頼しましょう。
エレ 29:12,13 「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」
私たちが祈る時、主はその祈りに耳を傾け、私たちが主を求める時、主は私たちと出会ってくださいます。
主に祈り、主の御顔とともに歩むことこそ、祝福のうちを歩む秘訣です。
エレ 20:9 「私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」
エレミヤは、民が自分の語ることを信じないで迫害するのを知って、「私は語らない」とたとえ思っても、神の愛の火が心の内から燃え上がって「主のことばを語らずにはおれません」と言っています。
私たちの内にも、エレミヤの内に燃えていた神の愛の火が、主のことばが燃え上がりますように。
エレ 17:7 「【主】に信頼する者に祝福があるように。その人は【主】を頼みとする。」
祝福を受ける秘訣が、主に信頼することであるとエレミヤは体験を通して知っていました。
今握っているものを手放して、ただ主に信頼しましょう。
エレ 15:19 それで、【主】はこう言われた。「…もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。」
ついつい愚痴や不平、時に噂話、悪口がでてくる口を、神は愛とやさしさと励ましがでてくる神の口としてくださいます。
口を制する者となれますように。
今週のテーマは、預言者「エレミヤ」です。
エレ 1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
神はエレミヤに、生まれる前から預言者として定めていたとお語りになりました。
このエレミヤの召命のみことばの中に、神の選びを見ます。
私たち人間は、今がどのような状態であっても、いつも神に見守られている存在なのです。
存在の価値がない人間は、一人もいないということです。
ヨハ 19:28 「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」
十字架につけられたイエスのみ傷から、一滴一滴血が流れるにつれ、焼けるような激しい渇きが起こりました。
しかし、それは単なる肉体的渇きではなく、霊的渇きでした。
イエスが血を流して成し遂げた十字架の贖いが無駄にならないように、人々がいのちの水を求めることへの愛の渇きでした。
イエスは十字架の上から、今日あなたに向かって叫んでおられます。
「わたしは渇く。あなたの愛に渇く」。
背一杯の愛をもって祈り、主の渇きをとどめることができますように。
神は愛なり!
ルカ 17:10「 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」
私たちは何か上手くいくと、自分の力だけで実現したかのように有頂天になり、後に失敗してしまうこともあるかもしれません。
私たちは主のしもべとなり、いつも「なすべきことをしただけです」と謙遜に答える者とならせていただきましょう。
詩 86:4 「このしもべのたましいを喜ばせてください。主よ私のたましいはあなたを仰ぎ求めています。」
主のしもべは、神を、神の御顔の光を求めて祈ります。
そこに真の喜びがあることを知っているからです。
Ⅱテモ2:24-25 「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。」
「しもべ」とは。「奴隷」です。
主のしもべは、人と自我で争ったりせず、優しくし、忍耐し、柔和であるようにと語られています。
主のしもべ、愛に満ちたしもべとならせていただきましょう。
Ⅰペテ 2:16 「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」
私たち人間には、自由意志が与えられています。
どのような選択をするかは、私たちに委ねられていますので、悪の道を選ぶことも、愛をもって歩む正しい道を選ぶこともできます。
神のしもべとして歩むことができますように。
ピリ2:6-8 「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」
キリストは神であられたのに、人間となり、しもべの姿となってくださいました。
それだけでなく、十字架の上で最も低い姿にまでなってくださいました。
ここに愛があります。
神は愛なり!
今日まで 京都へ行っていました。
久し振りのみことばになって失礼しました。
今週のテーマは、「主のしもべ」です。
マル 10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
「人の子」(キリスト)も神であられたのに、人間に仕えるために人間となり、ご自分のいのちを与えてくださいました。
ここに大きな愛があります。
神は愛なり!