レビ 23:10 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。」
ここでも、収穫物の初穂をささげるように語られています。
民は、太陽の光と雨を与え、収穫物を成長させてくださった神に最上の物をもって感謝をささげました。
レビ 23:10 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。」
ここでも、収穫物の初穂をささげるように語られています。
民は、太陽の光と雨を与え、収穫物を成長させてくださった神に最上の物をもって感謝をささげました。
レビ 22:19 「あなたがたが受け入れられるには、それは牛、羊、あるいはやぎのうちの、傷のない雄でなければならない。」
罪のためのささげ物、感謝のささげ物、和解のささげ物などに、当時は動物をいけにえとしてささげていました。
どうせ殺すのだから傷がある動物をささげるのではなく、神の前にできる限り最上のものをささげるように命じられています。
ささげ物をささげる人の心を、神はご覧になります。
レビ 22:2 「アロンとその子らに告げよ。イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは【主】である。」
神にささげる聖なるものは、慎重に扱うように教えられています。
神は聖なるお方ですから、慎重に精一杯聖別してささげることが大切です。
「聖別」とは、聖なるものと区別する、分けるという意味です。
今週のテーマは、「ささげ物」です。
創 4:4 「アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。」
カインとアベルの兄弟がささげ物を献げた時、神はアベルのささげ物を喜んで受けられました。
それは、カインが収穫物の一部を献げたのに対し、アベルが肥えた最上のささげ物を献げたからです。
エレ 29:13-14 「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」
「一期一会」とのテーマで学びました。
一期一会とは、一生に一度の出会い、1回しかないと考えてそれに専念する ことです。
聖書が示す一期一会とは、人生の最高の出会い、神との出会いです。
私たちの教会、グループの創立者大槻武二牧師は、この一期一会の神との出会いを与えられた時、全く変えられて素晴らしい神のみ業を行われました。
私たちは毎週の礼拝ごとに、この「一期一会」の素晴らしい出会いを求めて、神に祈りをささげましょう。
その時、あなたも愛の神との出会いを体験するでしょう。
創 9:1 「神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」
神は、洪水から守られたノアの家族を祝福し、多くの子孫を与えられました。
その約束のしるしとして、虹が現れたことが記されています。
同じ神の祝福が、皆さんの上にもありますように。
創 8:1 神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。神は地の上に風を吹き渡らせた。すると水は引き始めた。
洪水が襲いましたが、ノアの家族と動物たちは難を逃れて助かりました。
神は私たち一人ひとりも忘れることなく、覚えて心に留めてくださいます。
創 7:1 「【主】はノアに言われた。『あなたとあなたの全家は、箱舟に入りなさい。この世代の中にあって、あなたがわたしの前に正しいことが分かったからである。』」
とても厳しいみことばですが、とても大切なみことばです。
「箱舟」を「天国」と言い換えると分かりやすいと思います。
キリストは愛の神であると同時に、義の神ですから、この世で精一杯正しく歩み、救いを経験しなければ、神の国に入ることはできません。
このことをいつも心に留めましょう。
創 6:18 「しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。」
神は、民がどうしようもないほど罪に満ちていたため、洪水をもって罪深い人々を滅ぼそうとされました。
しかし、正しい人であったノアの家族は、救いの箱舟に入って救われました。
私たちも神の憐れみによって、確実に救いの箱舟に入れていただくことが大切です。
今、私の心を強く励ましているみことばはこれです。
「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコ5:36)
「信じていなさい」という箇所は、他の訳では「信じ続けなさい」となっています。
このコロナ禍で、思うようにいかないこともあります。
でもこのみことばを繰り返し唱える時、たとえ今思うようにいかなくても、
恐れないで、神を信じ続けて祈り続けることの大切さを教えられるのです。
そこに希望を見出します。
創 6:9 「これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」
ノアは、「全き人」だったと記されています。
それは容姿が良い、能力が優れているということではなくて、神の眼差しの目にその心が完全な人であったということです。
神様から「全き人」と言われるとは、何と幸いなことでしょう。
その秘訣は、「神とともに歩む」ことです。
今週のテーマは、「ノア」です。
ノアは、はっきりした年代は分かりませんが、紀元前2000年、あるいは3000年以上前の人物だと考えられています。
創 6:8 「しかし、ノアは【主】の心にかなっていた。」
ノアは、主の御心にかなう善良で正しい人で、彼はやがて起こる洪水から救い出されます。
主の前に精一杯誠実に歩む人になりましょう。
ヨハ6:20 「しかし、イエスは彼らに言われた。『わたしだ。恐れることはない。』
6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。」
イエスの海上歩行のみことばを学びました。
弟子たちの乗った舟が嵐に襲われ、いくら漕いでも前に進めず、ついに沈みそうになってしまいました。
私たちの人生にも、様々な高波や突風が襲ってくることがあります。
その時、イエスは海の上を歩いて彼らのところに来てくださった。
イエスはどんな困難も乗り越えて、私たちのところに来てくださるのです。
「わたしだ。恐れることはない!」
弟子たちがイエスを舟に迎えると、嵐は静まり、舟は目的地についた。
イエスを心に舟に迎えるとき、どんな逆風の中も進んでいくことができます。
ヨハ 16:33 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」
キリストは様々な試練と試みを受けられましたが、勝利を勝ち取られました。
ですからキリストは、平安を与えることを約束しつつ、「勇気を出しなさい」と語ってくださいます。
イザ 43:2 「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」
私たちの歩みの中で、激流や炎が襲ってくることもあるかもしれません。
しかし、主がともにいてくださるので、激流にも押し流されず、炎に焼かれることもないと主は言われます。
今あす試練の中で、一歩一歩まっすぐに進んでいけますように。
イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
大きな地震が起こって、本当にびっくりしましたね。
教会でも、棚が倒れ、机のキャスターが壊れ、食器や陶器が壊れましたが、無事でした。
皆さんは大丈夫でしたか。
全能の神様が私たちとともにおられ、義の右の手で助け守って下さると記されています。
余震が心配されますが、私たちは何ものをも恐れることなく、日々希望をもって歩んで行きましょう。
ヨシ 1:5 「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
ヨシュアは、民を約束の地に導いた勇者でした。
彼の前には偶像に満ちた多くの強大な国が立ちはだかっていました。
しかし、主がヨシュアと共におられたので、彼は立ちはだかるすべてに勝利を取ることができたのです。
年会聖会第2聖会で語られたのは、少年ダビデについてでした。
ダビデは、ペリシテ軍の勇士3mもあるゴリアテと対決しました。
ダビデは、杖と石投げをもって向かっていきましたが、ゴリアテは「俺は犬なのか」とあきれるほどで、結果は誰が見ても明らかに思えました。
しかし、ダビデはこう語りました。Ⅰサム 17:45 「おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かう。」
ダビデは、武力でも知恵でも自分の力でもなく、主の御名によって立ち向かったとき、勝利を得ることができました。
私たちの前に、どんな障害、敵が立ちふさがっても、敵、問題が大きければ大きいほど、主の御名に、主の力に拠り頼みましょう。
今週のテーマは、「勇気」です。
創 28:15 「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
主は、私たちがどこへ行っても守り、決して見捨てないと言われます。
何と勇気が与えられるみことばでしょうか。
今週は、恵みに満ちたみことばによって勇気を与えられることができますように。
今日は年会聖会で、伊丹司牧のメッセージの中で、フランシスコのエピソードが心に残りました。
寒い雪道を歩いていた時、フランシスコとレオに言いました。
「病人を癒し、すべての知識に通じていても、たとえ天使の言葉を話しても、そこには完全な喜びがない。」
レオが言いました。
「それでは、完全な喜びはどこにあるのですか。」
フランシスコは答えました。
「修道院に帰り、雨に濡れ寒さに震える中で、門番が門を空けず、外に放りだれる時、そこに完全な喜びがある。」
普通に考える喜びとは真逆です。
しかし、主に支えられながら、このような苦しみや試練を乗り越える時、そこに天国まで持って行ける完全な喜びがあります。
今、コロナ禍で多くの苦しみが襲ってきますが、主の力によって支えられることができますように。
それを喜ぶことができますように。
ロマ11:25-26「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。」
異邦人の救いが満ちる時、聖書の民イスラエルも救われ、世界に神の国が実現すると預言されています。
その時が近づいていることを思う時、私たちは今週ずっと学んできましたように、神の前に正しく誠実に歩む者となりましょう。
ローマ 15:16 「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」
使徒パウロは、自分の使命が、異邦人を神に喜ばれるほどの聖なる者とすることだと語っています。
聖・義・完全である神を喜ばせるほど、清く愛に満ちた者となることは、何と素晴らしいことでしょう。
私もそのような使命を、成し遂げる者とならせていただきたいと願います。
ローマ9:30 「それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。」
救いから遠い人さえも、信仰によって、義、神の正しさ、救いを受けることができると語られています。
イエスを神、救い主と信じて仰ぎ望みましょう。
ロマ 9:24 「このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」
人間を陶器師の作った器に例えて、神はあわれみの器にご自分の豊かな栄光を知らせる御計画を持っておられることが23節に記されています。
そのあわれみの器として、神は異邦人の中からも、すべての人を召し、あわれみと救いに導いてくださるのです。
ロマ 3:29 「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。」
当時、救いから遠かった異邦人に対して、「神は異邦人の神である」と語られています。
キリストは、救いから遠く離れてしまっているような人をも見捨てず、救ってくださる愛の神様です。
今週のテーマは、「異邦人の救い」です。
ロマ 1:5 「この方によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。」
異邦人とは、外国人のことですが、神の民ユダヤ人とは違う人という意味を持っていました。
確かに当時の異邦人は、真の神を知らず、道徳的にも腐敗していた暗闇の時代でした。
しかし、宣教者パウロは、救いから遠い異邦人にも信仰の従順がもたらされると約束しています。
ヨハ 3:5 「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。』」
最高議会の議員であったニコデモにイエスが語られた言葉です。
彼は人々から尊敬され、救いに近い人と思われていましたが、イエスは水と御霊(聖霊)によって新たに生まれ変わる必要があると言われました。
聖霊の水が私たちを洗い清め、新たな人へと造りかえてくださいますように。
Ⅰヨハ 4:16 「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」
キリストの愛をあらわしている御名です。
「神の愛を知り、信じている」。
キリストはいつもどんな時にも、私たちを愛し続けてくださいます。
「できの悪い子ほどかわいい」と言いますが、私たちが悩み苦しむ時ほど、キリストは放っておけず、さらに強く愛を注いでくださいます。
この神の愛のうちに、とどまりましょう。
ヨハ 14:6 「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』」
イエスという道を通って近づくと、イエスこそ真理、いのちであることを見出します。
そして、神に至ることができます。
この道を通って、真理に、いのちに、神ご自身に近づいて行きましょう。
ヨハ 1:1 「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
「ことば」とは、肉体を取られる前のキリストのことです。
キリストは、永遠の初めから存在しておられた。
キリストは、父なる神とともにおられた。
キリストは、真の神であった、という意味のみことば、御名です。
ヨハ 6:35 「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」
私たちの体に食物が必要なように、私たちの心にも栄養が必要です。
イエスこそ、私たちの心の糧です。
イエスのことば、御名こそ、命のパンです。
毎日、聖書のみことばを配信していますが、主のみことば、御名によって強められ生かされることができますように。
礼拝で、預言者エリヤが神の火を呼び下し、イスラエルに宗教改革が起こされたことを学びました。
その時、偶像の預言者は850人、主の預言者はエリヤただ一人でした。
しかし、たった一人でしたが、彼は素晴らしい神のみ業を行い、それを見た民は「主こそ神です」と告白しました。
大事なことは人数ではない。
たった一人であっても、神が共に働いてくださるなら、素晴らしいことが起こると言うことを教えられました。
イザ 44:6 「イスラエルの王である【主】、これを贖う方、万軍の【主】はこう言われる。『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない。』」
神は、「わたしは初めであり」、永遠の初めから存在していた神(先在者)、終わりである(世の完成者)」と言われます。
またこの御名は、世の、私たちのすべてであられることをあらわしています。