2022年4月13日水曜日

4月14日 日々のみことば「無理に背負わされた」

 マタ 27:32 「兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。」

 

そこを通りがかったクレネ人シモンは、イエスの十字架を無理に負わされました。

シモンは最初嫌々十字架を背負ったと思いますが、イエスの一挙手一投足を見て感動したのだと思います。

マルコ伝にはシモンの事を「アレクサンドロとルフォスの父」と記されており、シモンは後にクリスチャンになったのではと言われています。

十字架を負うことはつらいことですが、それを耐え忍ぶとき、神から与えられる恵みがあることを信じます。

2022年4月12日火曜日

「十字架の本当の意味」

 最近では、アクセサリーとして十字架のペンダントをしている人もいます。

しかし、もともと十字架は呪いの象徴でした。

最も罪深い罪人をじわじわ出血多量で殺す、最も残酷な死刑の方法でした。

では、なぜ四聖人とも言われるイエスが、十字架にかかられたのでしょうか。

それは、私たち全人類の罪の身代わりとなり、すべての人に愛と救いを与えるためだったのです。

イザ 53:5 「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

イエスが十字架で受けられた愛のみ傷のゆえに、私たちに平和が与えられ、癒しが与えられています。

今日、十字架のイエスを仰いで、平和と愛を受け取りましょう。

神は愛なり!


4月13日 日々のみことば「自分は救えない神」

 マル 15:31 「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。『他人は救ったが、自分は救えない。』」

 

この嘲りの言葉が、イエスの愛のみ姿を示しています。

イエスが十字架にかかっているのは、全人類を救うためでした。

イエスはこれまで人々の迫害を逃れておられましたが、十字架の上で罪の贖いを成し遂げるために、自分を救うのではなく、犠牲となって死なれました。

まさに「他人は救ったが、自分は救えない」愛の神様なのです。

2022年4月11日月曜日

4月12日 日々のみことば「お赦しください」

 今週は受難週で、テーマは、「十字架」です。

ルカ 23:34 「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』」

 

イエスは十字架の上で、ご自分を十字架につけた者に「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。

このみことばは、全人類に対して、私たちに対しても語ってくださっているみことばです。

私たちは、自分が今何をしているのか、何をすればよいか、分からない者かもしれませんが、失敗だらけの私たちを主を赦し愛してくださいます。


2022年4月10日日曜日

4月11日 礼拝のみことば「ろばに乗って」

 マタ21:6-7 「そこで弟子たちは行って…ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。」

 

昨日は、しゅろの聖日で、イエスが十字架にかかるために、エルサレムに入城された日です。

これはイエスの生涯で最も華々しい瞬間でしたが、イエスは馬ではなく、ろばに乗って入城されました。

ろばは、馬のように早く走れず、ライオンのように強くない、のろまで愚鈍な動物です。

しかしろばは、決して早くはありませんが、ただ黙々と荷を負い、忠実に歩むことができるのです。

イエスは私たちを、招いてくださいます。

才能がなくても力がなくても良い。

ただ忠実に一足一足歩み続ける人を求めておられます。

この主の招きに、選びに、精一杯お応えしましょう。

2022年4月9日土曜日

4月10日 日々のみことば「天に宝を」

マタ 6:20 「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」

 

この世でいくら宝を積んでも、それらはこの地上だけのもので、死んだ後は他人のものになるだけです。

けれども天国に積んだ宝は、決して盗まれたり色あせることはありません。

私たちの正しい行い、愛とやさしさ、信仰、祈りを、天に積んでいきましょう。


4月9日 日々のみことば「隠れたところで」

 マタ 6:3-4 「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」


良い行いをするときに、人に見られるようにするのではなく、誰も見ていないところでこそ行うように勧められています。

地上では、誰からも称賛されないかもしれませんが、天国で神様がそれに報いをくださるからです。